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2020年09月05日

「宇宙戦艦ヤマト」リアルな表現の危うさ

 日本のTVアニメにおいては、74年放映の「宇宙戦艦ヤマト」あたりからよりリアルなSF描写、戦争描写が導入され始めた。
 それまでの子供(主に男の子向け)番組の主人公は、単独または少数精鋭のチームで「善玉」を担当し、「悪玉」にあたる敵役は、見た目から明らかに人間離れしたモンスターであることが基本だった。
 ストーリーはわかりやすい「勧善懲悪」であり、30分枠の一話完結で、過不足なく見せ場を繋げる定型を持っていた。
 こうした低年齢向けの番組スタイルは、時代を超えて一定の需要が見込めるので、アップデートを繰り返しながら連綿と今に続いている。
 マジンガーZを始祖とするスーパーロボットものも、単独のアニメ番組としては下火になっているものの、男の子向け番組の中の一アイテムとして、たとえば特撮のスーパー戦隊シリーズの中では健在なのだ。

 低年齢向けの定型は温存されながら、観る側と作る側の成熟により、TVアニメの表現は「次なる段階」への進化も模索された。
 小学校高学年から中学生にかけて、本来なら子供番組から卒業する年代の鑑賞にも堪える要素として導入されたのが「よりリアルな表現」であり、その嚆矢が「宇宙戦艦ヤマト」だったのだ。
 ストーリー構成は一話完結方式から一歩踏み出し、放映一回分は「目的を持った長い宇宙航海」のエピソードの中の一つであることが、毎回強調された。
 何よりも大きな変化は、敵役が(異星人ではあるが)あくまで「人間」であったことだろう。
 ガミラス星人は肌の色が薄いブルーであることを除けば、外見も体格も能力も地球人と大差はなく、宇宙戦艦や宇宙戦闘機、各種火器で戦闘を行い、地球人と同じような感情を持ち、同じように死傷する。
 科学力の優位で地球側を圧倒しているけれども、ほとんど人間にと同じに見える異星文明との戦争であるという点が、低年齢向けの「わかりやすいモンスターをやっつける」定型とは一線を画した「リアル」を醸し出したのだ。

 ただ、「宇宙戦艦ヤマト」のヒット要因として、ややためらいを感じつつもどうしても挙げておかなければならないのは、作中に含まれる「旧日本軍的アイテム」、もっと言えば「軍国趣味」がある。
 作品タイトルにもなっている主役宇宙戦艦は、そもそも旧日本海軍の巨大戦艦大和の残骸を改造し、姿も名も近似した「ヤマト」であったし、ヒットした主題歌も「軍歌」のイメージ(実際は軍歌よりはるかに高度な音作りなのだが、あくまでイメージとして)が重ねられている。
 そして作中では「神風特攻隊」を思わせる自爆攻撃が、戦闘シーンのクライマックスとして印象に残る。
 史実としての戦艦大和は時代遅れの大鑑巨砲主義でろくに稼働しないまま撃沈され、史実としての特攻隊はしょせん戦局を左右し得ない苦し紛れの戦術であったが、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」の作品世界では、どちらも乾坤一擲、起死回生の戦果をあげ、感動を呼んだ。
 また、史実としての大日本帝国は、ナチスドイツと同盟して連合国と戦ったのに対し、アニメ作中でのヤマトは「連合国」的な地球軍を代表し、ナチスドイツを思わせるガミラス帝国と戦った。
 しょせん「お話し」の中でのこととは言え、このあたりの「歴史の捻じ曲げ方」にはちょっと「あやうさ」を感じざるをえない。
 大人になってから振り返ってそう感じるというだけでなく、ヤマトプラモのヒット当時高学年にさしかかり、歴史の学習が始まっていた小学生時代の私も、自分がヤマトファンであることに対してなんとなく「居心地の悪さ」のようなものは感じていた覚えはある。
 TVアニメで「人間同士の戦争」を「リアルに」「カッコよく」描くことは、一歩間違うと「戦争賛美」「戦意高揚」のプロパガンダになりかねないのだ。

 こういう葛藤は、たぶんヤマトファンの内の一定数が、あえて言葉にせずとも感じていたのではないかと思う。
 ストーリーだけで考えるなら、主役の宇宙戦艦に旧日本軍の「戦艦大和」のイメージを重ねる必要は全くなかったはずだ。
 もっと他にSF的なデザインはあり得るし、実際作品の企画段階では、主役艦は別の名、別の姿を持っていた。
 しかし、「ヤマト」以外の名とデザインでは、作品の大ヒットが見込めなかったであろうことも、よくわかる。
 今も昔も日本では、「純粋にSFだけのファン」のマーケットは限られており、広く一般にアピールするためには+αの要素が不可欠だ。
 ヤマトの作品内容を主導したのが誰であるかということについては諸説あるが、旧日本軍や旧ドイツ軍のイメージを導入したのは、マンガ家の松本零士で間違いないだろう。
 作品内のメカニックデザインの中でもやや異質なヤマトの懐古趣味や、美麗な松本キャラの容姿は、ヒット要因の中でも最大のものだったはずだ。
 あやうい意匠を持ち込んだ張本人でありながら、同時に松本零士は作品が「軍国主義」や「戦争賛美」につながることを、神経質なくらい避けようと努めたという。
 地球側の艦隊の描写では極力「軍国主義」に見える意匠を避け、あくまで侵略に対する自衛であるという表現を徹底させた。
 敵方であるガミラス星にはガミラス星なりの「大儀」があったことも描かれ、敵も味方も死傷する戦争の「痛み」の部分も強調された。

 そうした「細心の配慮」は認めつつも、「ヤマト」は子供向けサブカルから一旦は切り離された「戦争モノ」と言うジャンルを、再び土俵に引っ張り込んでしまった面は否めない。
 男の子向け番組を作って関連商品を売るというビジネスモデルは、どのように言いつくろっても男の子の「戦争ごっこ好き」の性質を煽って飯のタネにするという側面を持つ。
 ウケてなんぼ、ウケなきゃゼロの厳しい世界だが、そんな制約の中でも作り手のギリギリの良心というものが光る瞬間がある。
 そして前々回記事でも述べた通り、男子のミリタリー趣味と反戦平和は両立し得るのだ。

 戦争ごっこと反戦平和

 しかしそれには、「史実の学習」というプロセスが欠かせない。
 私が高学年になるにつれ、ヤマトに対して「微妙な距離」を感じるようになったのは、ごく自然な反応とも言える。
 アニメと現実の違いをきちんと認識することは、子供の楽しみ方から大人の楽しみ方へ移行する時に誰もが体験することだ。
 私の場合はその時期にガンプラブームが重なったこともあって、ヤマトに含まれる軍国趣味について、それ以上に掘り下げて考えることはなかった。
posted by 九郎 at 10:04| Comment(0) | 青春ハルマゲドン70s | 更新情報をチェックする