12月に入りました。
今年は秋がゆっくり進行し、紅葉は遅め遅め。
私の周遊範囲にあるいくつかのモミジ所も、なかなか色づきが進みませんでした。
秋のスケッチは身近な草木中心に描いてきましたが、要所で「風景」も挟んできました。
ヒガンバナの頃歩き回った河川敷で一枚。
直接「秋」らしい色があるわけではないですが、光線の加減か、やはり「夏」の風景とは違ってきます。
そしてこれまでにも何度か訪れた海辺の奇岩で一枚。
十年以上前から一度スケッチしたくて、ようやく果たせました。
なかなか紅葉しない近場の貯水池に、家族でハイキングがてらに一枚。
秋の日は短く、午後三時になるともう「夕方」の光線になってしまい、とくに山間部ではそこからすぐに暗くなってしまいます。
色々考え合わせると、午後のスケッチはせいぜい小一時間程度しかかけられません。
多少時間をかけたい場合はむしろ午前中の方が向いています。
紅葉のような、それ自体で圧倒的な風景を前にすると、スケッチでできることの少なさに愕然とします。
それでも新弟子のぶつかり稽古のごとく、ともかく描くことに意義がある!
ようやく色づいたモミジの大樹で、今年の秋のスケッチを締めくくりました。
2020年12月05日
2020年12月12日
川奈まり子「一〇八怪談 鬼姫」1
七月末の新刊、川奈まり子「一〇八怪談 鬼姫」を、先月ようやく読了した。
●「一〇八怪談 鬼姫」 (竹書房怪談文庫)
長く書くこともできそうな実話怪談の聞き取りを、ストイックに刈り込んで見開き二ページにまとめたものが一〇八編。
はじめは「なんと贅沢な!」あるいは「ちょっともったいないかな?」と思いながら読み進めるうちに、印象が変わってきた。
一つ一つのエピソードを時間を置きながらゆっくり味わう内に、元々抑えた筆致の著者の作風に、むしろ合っているのではないかと思い始めたのだ。
なにしろ一〇八話のボリュームなので、中には過去の自分の記憶と重なるようなエピソードも多々あった。
怪異譚の話者は日本全国にまたがっているので、よく知る土地柄に親しみを感じることも度々あった。
少し読んでは本を閉じて反芻する内に、数か月が経ってしまった。
なんと長く楽しめる文庫本一冊であったことか(笑)
どのお話も面白いのだが、私が個人的に自分の知見に絡めて語れるエピソードについて、ネタバレにならないよう配慮しつつ紹介してみよう。
第一、二話は、視覚喪失に関する怪異。
私は弱視児童であったという生い立ちから、「視えて当り前」という意識は端から持っていない。
近年は徐々に老眼が進み、再び見えない生活に還っていくことを想定し、日々暮らしている。
四十歳の時に失明したという話者の方の体験に敬意を払いつつ、内容を受け止めた。
第七話「白髪」
私にも覚えがあり、川奈作品でも何度か取り上げられてきた、思春期の金縛りからはじまる怪異体験。
中学生の頃、いじめ被害から不登校、自殺願望へと進んでしまったというこの話者の遭遇体験も、強力な何者かとの「合体」とか、「守護を得る」と言うような意味合いがあったのではないだろうか。
怪異を契機とした苦境の克服というケースは、私も思い当たる所があるのだ。
第一二話「グランドオープン」
完成間際のショッピングモールでの、「華やかな」怪異。
このショッピングモールが何の跡地であったかが、やはり気になる。
盛り場や飲食店の類が、墓場や刑場の跡地に立つと繁盛するとも言われるが、さて。
このエピソードを読んでいた8月半ば、偶然「繁華街と墓」にまつわるニュースが流れた。
大阪・梅田で、江戸〜明治時代にあった「梅田墓」についての発掘調査中に、埋葬人骨1500体超が出土したと発表されたのだ。
折しもお盆の時期、賑やかな霊の集いの風景に思いを馳せた。
第三五話〜三八話は、難病の入院体験から始まる一連の「騒霊」タイプの怪異。
読んですぐ「どんぐりと山猫」「セロ弾きのゴーシュ」「月夜のでんしんばしら」等の宮沢賢治の童話を連想した。
恐怖と言うより、孤独を感じさせる主人公への「にぎやかし」のイメージである。
怪異は必ずしも、「怖い」ばかりではないと思わせるエピソード。
第三九話「顔振峠」
身内にふりかかった突然で理不尽な不幸にまつわる怪異だが、こちらは非常に恐ろしい。
何が恐ろしいかと言えば、私の身内に同じようなことが起こったら、タイプ的にきっと子細を調べてしまうだろうからだ。
そして現地に行ってしまい……
決して現地に近付かなかった話者は、非常に賢明な方だと感じた。
第四二話「門司の怪A」
耳鳴り、頭痛と霊聴にまつわる怪異。
私は数年前から、いわゆる「天気痛」が出るようになった。
低気圧の接近に伴い、軽い頭痛が起こるのだ。
経験的には、怪異と気圧や温度湿度は、わりと関連しているのではないかと感じている。
それらが変化する時、空気は流れて「気配」は動くし、各種素材の伸縮も起こる。
頭痛や耳鳴りのような身体症状も起こる。
それらが複合された時、受け手の心の中に何かが「表現」されてしまうことは、あり得ると思っている。
第四三話「その女の姿」、第四四話「幽霊画の秘密」
どちらも「姿を見せない」怪異。
絵描きは日常的に経験することだと思うが、「描きすぎ」は絵の呪力を失わせがちだ。
描かないことで効果が上がるなら、いっそ描かない方が良い。
それでも修練を積んだ自分の腕を頼み、ついつい描き過ぎてしまうのが絵描きの習性だ。
そう言えば幼児の頃、何も描いていない紙を見るのが寂しかったり怖かったりした。
特に色画用紙が怖くて、そのまま目の前にあることが耐えきれずに、恐怖を埋めるようにお絵描きしていたことを、ふと思い出したエピソードだった。
第五三〜五六話、および閑話休題
憑霊、祓い師に関する一連のエピソード。
普通に生きる分には何も憑いていない方が良いのだろうけれども、「憑いている」と言うか「合体している」感じで、共存しているケースはある。
件の「しのびちゃんと熱くなる石」の方も、おそらくそのような怪異との付き合いかたではないだろうか。
第六九話「白い腕」
大学演劇学科での怪異。
私は90年代の学生時代から卒業後の数年間、関西の小劇場に参加していた。
当時から演劇に怪異が付き物であるのは、わりと「常識」だったことを思い出した。
特に「人が死ぬ芝居」で、それは起こりやすいと言われていた。
スピーカーに異音が入ったり、照明がふいに点滅したりという機材トラブルは起こりやすく、実際に「何か見る」のは役者が多かった。
私の場合は屋外で装置を作っている時、ものすごく狙いすましたようなタイミングで突風が吹き、工具や画材を手から奪われるというようなことがあった。
本番前の神社参拝は、無用のトラブルを避けるための「実用」みたいな感じでとらえられていた。
付言すると、現在の私はいわゆる「霊現象」を、留保抜きでそのまま信じているわけではない。
本番に向けてキャスト・スタッフ一丸となって神経を研ぎ澄まし、演技やオペの精度を上げ、場の空気に敏感になることが、何か起こった時の「気づき易さ」に繋がっていた面はあると思っている。
たぶん、小さな「何か」は日常的に起こっているのだ。
第七三話「嫁の呪い」
親族間の怨念は増殖しやすく、延焼すると一族まるごと地獄のようになってしまうことがある。
どこかで切り離しが必要で、そういう意味では都市化、核家族化の良い面もあるなと考えさせられるエピソード。
第七九話「喫茶店の観音菩薩」
観音菩薩像の写真を巡る霊験譚の体裁だが、著書も最後に記している通り、喫茶店のママが主役だ。
客に写真に手をかざさせて対話し、時に身体的な癒しを与える様は、振り子等を使うダウジングとも似ていると思った。
第八四〜八五話、貍にまつわる怪異。
現代の都市生活だと「貍にバカされる」というのは、それこそバカバカしく感じられるが、ほんの一昔二昔前なら、それは普通に語られていた。
とくに夏の終わりから秋にかけて、食欲旺盛な貍たちが人里に現れやすいこの時期には。
はっきり「怪異」と言うほどではないけれども、私も昔「ばかされた?」と感じた経験がある。
過去記事「つ、つ、つきよだ」
あれは何年前のことだっただろうか?
季節は秋、月夜のことだった。
帰り道に川沿いの公園を通りかかった時のこと、前方にトコトコ動く影が見えた。犬よりは丸く、猫よりはかたい。
タヌキだ。
当時住んでいたのは山の麓にある都市部で、住宅地でもたまにこうした野生動物を見かけたものだ。
私がかまわず前進すると、その分タヌキはトコトコと遠ざかり、こちらを振り向く。また前進すると、またトコトコ遠ざかってから振り向く。
はじめはそのタヌキをどうこうするつもりはなかったが、そういう態度をとられると、ついついかまいたくなってきてしまう。
足を速めてタヌキに迫ってみた。
タヌキはキョロキョロしながら、公園の歩道から外れて緑の中に入り、また振り返る。
私はすっかり意地悪な気分になって、さらに追い込みをかけた。
タヌキは慌てて植え込みの中に消えていった。
軽い遊びに満足した私がふと足元に気付いてみると、そこには犬の糞がゴロゴロ転がっていた。
もしかして、ばかされた?
●「一〇八怪談 鬼姫」 (竹書房怪談文庫)
長く書くこともできそうな実話怪談の聞き取りを、ストイックに刈り込んで見開き二ページにまとめたものが一〇八編。
はじめは「なんと贅沢な!」あるいは「ちょっともったいないかな?」と思いながら読み進めるうちに、印象が変わってきた。
一つ一つのエピソードを時間を置きながらゆっくり味わう内に、元々抑えた筆致の著者の作風に、むしろ合っているのではないかと思い始めたのだ。
なにしろ一〇八話のボリュームなので、中には過去の自分の記憶と重なるようなエピソードも多々あった。
怪異譚の話者は日本全国にまたがっているので、よく知る土地柄に親しみを感じることも度々あった。
少し読んでは本を閉じて反芻する内に、数か月が経ってしまった。
なんと長く楽しめる文庫本一冊であったことか(笑)
どのお話も面白いのだが、私が個人的に自分の知見に絡めて語れるエピソードについて、ネタバレにならないよう配慮しつつ紹介してみよう。
第一、二話は、視覚喪失に関する怪異。
私は弱視児童であったという生い立ちから、「視えて当り前」という意識は端から持っていない。
近年は徐々に老眼が進み、再び見えない生活に還っていくことを想定し、日々暮らしている。
四十歳の時に失明したという話者の方の体験に敬意を払いつつ、内容を受け止めた。
第七話「白髪」
私にも覚えがあり、川奈作品でも何度か取り上げられてきた、思春期の金縛りからはじまる怪異体験。
中学生の頃、いじめ被害から不登校、自殺願望へと進んでしまったというこの話者の遭遇体験も、強力な何者かとの「合体」とか、「守護を得る」と言うような意味合いがあったのではないだろうか。
怪異を契機とした苦境の克服というケースは、私も思い当たる所があるのだ。
第一二話「グランドオープン」
完成間際のショッピングモールでの、「華やかな」怪異。
このショッピングモールが何の跡地であったかが、やはり気になる。
盛り場や飲食店の類が、墓場や刑場の跡地に立つと繁盛するとも言われるが、さて。
このエピソードを読んでいた8月半ば、偶然「繁華街と墓」にまつわるニュースが流れた。
大阪・梅田で、江戸〜明治時代にあった「梅田墓」についての発掘調査中に、埋葬人骨1500体超が出土したと発表されたのだ。
折しもお盆の時期、賑やかな霊の集いの風景に思いを馳せた。
第三五話〜三八話は、難病の入院体験から始まる一連の「騒霊」タイプの怪異。
読んですぐ「どんぐりと山猫」「セロ弾きのゴーシュ」「月夜のでんしんばしら」等の宮沢賢治の童話を連想した。
恐怖と言うより、孤独を感じさせる主人公への「にぎやかし」のイメージである。
怪異は必ずしも、「怖い」ばかりではないと思わせるエピソード。
第三九話「顔振峠」
身内にふりかかった突然で理不尽な不幸にまつわる怪異だが、こちらは非常に恐ろしい。
何が恐ろしいかと言えば、私の身内に同じようなことが起こったら、タイプ的にきっと子細を調べてしまうだろうからだ。
そして現地に行ってしまい……
決して現地に近付かなかった話者は、非常に賢明な方だと感じた。
第四二話「門司の怪A」
耳鳴り、頭痛と霊聴にまつわる怪異。
私は数年前から、いわゆる「天気痛」が出るようになった。
低気圧の接近に伴い、軽い頭痛が起こるのだ。
経験的には、怪異と気圧や温度湿度は、わりと関連しているのではないかと感じている。
それらが変化する時、空気は流れて「気配」は動くし、各種素材の伸縮も起こる。
頭痛や耳鳴りのような身体症状も起こる。
それらが複合された時、受け手の心の中に何かが「表現」されてしまうことは、あり得ると思っている。
第四三話「その女の姿」、第四四話「幽霊画の秘密」
どちらも「姿を見せない」怪異。
絵描きは日常的に経験することだと思うが、「描きすぎ」は絵の呪力を失わせがちだ。
描かないことで効果が上がるなら、いっそ描かない方が良い。
それでも修練を積んだ自分の腕を頼み、ついつい描き過ぎてしまうのが絵描きの習性だ。
そう言えば幼児の頃、何も描いていない紙を見るのが寂しかったり怖かったりした。
特に色画用紙が怖くて、そのまま目の前にあることが耐えきれずに、恐怖を埋めるようにお絵描きしていたことを、ふと思い出したエピソードだった。
第五三〜五六話、および閑話休題
憑霊、祓い師に関する一連のエピソード。
普通に生きる分には何も憑いていない方が良いのだろうけれども、「憑いている」と言うか「合体している」感じで、共存しているケースはある。
件の「しのびちゃんと熱くなる石」の方も、おそらくそのような怪異との付き合いかたではないだろうか。
第六九話「白い腕」
大学演劇学科での怪異。
私は90年代の学生時代から卒業後の数年間、関西の小劇場に参加していた。
当時から演劇に怪異が付き物であるのは、わりと「常識」だったことを思い出した。
特に「人が死ぬ芝居」で、それは起こりやすいと言われていた。
スピーカーに異音が入ったり、照明がふいに点滅したりという機材トラブルは起こりやすく、実際に「何か見る」のは役者が多かった。
私の場合は屋外で装置を作っている時、ものすごく狙いすましたようなタイミングで突風が吹き、工具や画材を手から奪われるというようなことがあった。
本番前の神社参拝は、無用のトラブルを避けるための「実用」みたいな感じでとらえられていた。
付言すると、現在の私はいわゆる「霊現象」を、留保抜きでそのまま信じているわけではない。
本番に向けてキャスト・スタッフ一丸となって神経を研ぎ澄まし、演技やオペの精度を上げ、場の空気に敏感になることが、何か起こった時の「気づき易さ」に繋がっていた面はあると思っている。
たぶん、小さな「何か」は日常的に起こっているのだ。
第七三話「嫁の呪い」
親族間の怨念は増殖しやすく、延焼すると一族まるごと地獄のようになってしまうことがある。
どこかで切り離しが必要で、そういう意味では都市化、核家族化の良い面もあるなと考えさせられるエピソード。
第七九話「喫茶店の観音菩薩」
観音菩薩像の写真を巡る霊験譚の体裁だが、著書も最後に記している通り、喫茶店のママが主役だ。
客に写真に手をかざさせて対話し、時に身体的な癒しを与える様は、振り子等を使うダウジングとも似ていると思った。
第八四〜八五話、貍にまつわる怪異。
現代の都市生活だと「貍にバカされる」というのは、それこそバカバカしく感じられるが、ほんの一昔二昔前なら、それは普通に語られていた。
とくに夏の終わりから秋にかけて、食欲旺盛な貍たちが人里に現れやすいこの時期には。
はっきり「怪異」と言うほどではないけれども、私も昔「ばかされた?」と感じた経験がある。
過去記事「つ、つ、つきよだ」
あれは何年前のことだっただろうか?
季節は秋、月夜のことだった。
帰り道に川沿いの公園を通りかかった時のこと、前方にトコトコ動く影が見えた。犬よりは丸く、猫よりはかたい。
タヌキだ。
当時住んでいたのは山の麓にある都市部で、住宅地でもたまにこうした野生動物を見かけたものだ。
私がかまわず前進すると、その分タヌキはトコトコと遠ざかり、こちらを振り向く。また前進すると、またトコトコ遠ざかってから振り向く。
はじめはそのタヌキをどうこうするつもりはなかったが、そういう態度をとられると、ついついかまいたくなってきてしまう。
足を速めてタヌキに迫ってみた。
タヌキはキョロキョロしながら、公園の歩道から外れて緑の中に入り、また振り返る。
私はすっかり意地悪な気分になって、さらに追い込みをかけた。
タヌキは慌てて植え込みの中に消えていった。
軽い遊びに満足した私がふと足元に気付いてみると、そこには犬の糞がゴロゴロ転がっていた。
もしかして、ばかされた?
(つづく)
2020年12月13日
川奈まり子「一〇八怪談 鬼姫」2
(川奈まり子「一〇八怪談 鬼姫」レビュー、続き)
第八六話「仏壇と背中合わせ」
本書の多くのエピソードを読み進めると、何度か「これ自分のこと?」と思うような怪異譚に出会う。
そんな中の一つ。
私の母方の祖父も大工で、元は「田の字」だったはずの家は増築に次ぐ増築で、元より斜面地の家屋だったせいもあり、複雑怪奇な造りになっていた。
さすがにトイレは外付け。
泊まって夜中に尿意で目覚めた時には、木彫りが趣味だった祖父の彫った仏像や龍が多数並ぶ玄関を通らねばならず、非常に怖かった。
お盆に泊まった折、恐々その玄関を抜けて外に出ると、生まれてはじめて見る綺麗な天の川に茫然としたことなど、今でも覚えている。
第八九〜九二話、および閑話休題
蛇「くちなわ」にまつわるエピソード。
読後、「竜女」という伝承を思い出す。
竜女については、出口王仁三郎「霊界物語」に簡潔な記述がある。
霊界物語は大正〜昭和期に口述筆記された新宗教の教典であるが、出口王仁三郎は当時の諸宗教、民俗に極めて博識で、通念としての「竜女」のよくまとまった記述になっていると思う。
現代の社会通念ではもちろん違和感があるが、克服しがたい病や生い立ちの困難の、ぎりぎりの受け入れ方の一つとして、昔はこのような伝承が機能していたのではないだろうか。
これを現代社会で但し書き無しにそのまま読めば、当然それは「迷信」「因習」「差別」になり、「呪い」にすらなり得る。
医療や福祉、社会基盤の整備、人権意識の啓発で救済することを目指すのが、「近代」というものであろうと思う。
閑話休題「いっぱい憑いてる」
ある研究者から「おもしろいものがいっぱい憑いている」と評された著者。
その憑き物は、著者に波長の合う者には「良い影響」を与えると言う。
一読者として、私も「良い影響」のおすそわけをいただけているかもしれない。
第九八話「三途の川の渡し舟」
子供の頃からなんとなく脳裏に浮かび、夜寝る前に思い出しては怖くなる、そんな仄暗いイメージがいくつかある。
その中の一つに「夜間、虚空を漕いでくる死人の舟」というものがあり、このエピソードを読んですぐ思い出した。
なんでそんなおかしな空想をしていたのか、自分でもよくわからなかったのだが、イメージソースの一つはTVアニメ「ドロロンえん魔くん」に登場した「まどろ眠」という妖怪ではないかと、今気付いた。
作中の創作妖怪「まどろ眠」は、船頭になった琵琶法師のような姿で、人間を深い眠りに誘う白い霧の中を小舟で漕いでくる。
霧の中には巨大な鮫の妖怪も泳いでくる。
子供の頃、その映像がものすごく恐ろしく、夜眠れなかったことがあったのだ。
何か深層意識に刺さるものがあったのだろう。
後に描いたマンガの中に、「死人の舟」の奇怪なイメージを使ったこともある。
投稿マヴォ「夜鳴き」より
その後もずっと気になっていて、折にふれ、類するものは調べたり作ったり描いたりしてきた。
友ヶ島年代記6 中世淡嶋願人
補陀落
補陀落渡海船
「船出」MBM紙 木炭 パステル
今回「三途の川の渡し舟」エピソードで、「病院に漕ぎいる幻の舟」「定員三人」という、気になるモチーフに出会った。
いずれまた、何か描くことになるかもしれない。
第一〇三話「仁王像と猫」
危機的状況を猫に救われた少女のエピソード。
屋外で見かける猫やカラス等の高知能の生き物は、注意を向けていると、向こうから色々サインを送って来ているかに思えることがある。
もしかしたら自分の思考が生き物の表情に反映されているだけなのかもしれないが、ともかくそのように感じることはある。
このエピソードの猫は「そんな気がする」と言う水準ではなく、明らかに意思疎通しているように感じられ、不思議である。
川奈作品の多くのエピソードを読み、それに引き出されるように自分の(はっきり「怪」と言うほどではない)体験を思い出してみると、怪異現象は全般に「偶発的な自然現象」と似た所があると感じる。
そちらにチューニングを合わせていなければ出会う頻度は低くなるし、普段から注意を払っていればよく出会う。
感覚的には「虹をよく見る人は怪異もよく見る」という傾向がありそうに思う。
そして最終話「鬼姫」へ。
著者自身の怪異譚から歴史上のエピソードへと広がり、一〇八つの物語の幕は閉じる。
多くの聞き取りの集積でありながら、著者の怪異がそれをやんわり包み込み、歴史へと繋がるこの感覚は、川奈作品の醍醐味でもある。
コロナ禍が猛威を振るい、今現在も感染拡大が留まるところを知らない2020年末。
仕事は在宅に、子供たちは休校になった今年前半からの流れで、自分の置かれた現在の状況、そしてこれまでの半生を振り返ることの多い一年だった。
夏以降も続く思うに任せぬ日々の中、子供らと学び、遊び、淡々とスケッチを続け、色々ともの想うかたわらにこの本があったことは、良い巡り合わせだったと思う。
第八六話「仏壇と背中合わせ」
本書の多くのエピソードを読み進めると、何度か「これ自分のこと?」と思うような怪異譚に出会う。
そんな中の一つ。
私の母方の祖父も大工で、元は「田の字」だったはずの家は増築に次ぐ増築で、元より斜面地の家屋だったせいもあり、複雑怪奇な造りになっていた。
さすがにトイレは外付け。
泊まって夜中に尿意で目覚めた時には、木彫りが趣味だった祖父の彫った仏像や龍が多数並ぶ玄関を通らねばならず、非常に怖かった。
お盆に泊まった折、恐々その玄関を抜けて外に出ると、生まれてはじめて見る綺麗な天の川に茫然としたことなど、今でも覚えている。
第八九〜九二話、および閑話休題
蛇「くちなわ」にまつわるエピソード。
読後、「竜女」という伝承を思い出す。
竜女については、出口王仁三郎「霊界物語」に簡潔な記述がある。
霊界物語は大正〜昭和期に口述筆記された新宗教の教典であるが、出口王仁三郎は当時の諸宗教、民俗に極めて博識で、通念としての「竜女」のよくまとまった記述になっていると思う。
(第一巻十七章より一部引用)
本来竜女なるものは、海に極寒極熱の一千年を苦行し、山中にまた一千年、河にまた一千年を修業して、はじめて人間界に生れ出づるものである。その竜体より人間に転生した最初の一生涯は、尼になるか、神に仕へるか、いづれにしても男女の交りを絶ち、聖浄な生活を送らねばならないのである。もしこの禁断を犯せば、三千年の苦行も水の沫となつて再び竜体に堕落する。従つて竜女といふものは男子との交りを喜ばず、かつ美人であり、眼鋭く、身体のどこかに鱗の数片の痕跡を止めてゐるものも偶にはある。かかる竜女に対して種々の人間界の情実、義理、人情等によつて、強て竜女を犯し、また犯さしめるならば、それらの人は竜神よりの恨をうけ、その復讐に会はずにはゐられない。通例竜女を犯す場合は、その夫婦の縁は決して安全に永続するものではなく、夫は大抵は夭死し、女は幾度縁をかゆるとも、同じやうな悲劇を繰返し、犯したものは子孫末代まで、竜神の祟りを受けて苦しまねばならぬ。
(以下略)
現代の社会通念ではもちろん違和感があるが、克服しがたい病や生い立ちの困難の、ぎりぎりの受け入れ方の一つとして、昔はこのような伝承が機能していたのではないだろうか。
これを現代社会で但し書き無しにそのまま読めば、当然それは「迷信」「因習」「差別」になり、「呪い」にすらなり得る。
医療や福祉、社会基盤の整備、人権意識の啓発で救済することを目指すのが、「近代」というものであろうと思う。
閑話休題「いっぱい憑いてる」
ある研究者から「おもしろいものがいっぱい憑いている」と評された著者。
その憑き物は、著者に波長の合う者には「良い影響」を与えると言う。
一読者として、私も「良い影響」のおすそわけをいただけているかもしれない。
第九八話「三途の川の渡し舟」
子供の頃からなんとなく脳裏に浮かび、夜寝る前に思い出しては怖くなる、そんな仄暗いイメージがいくつかある。
その中の一つに「夜間、虚空を漕いでくる死人の舟」というものがあり、このエピソードを読んですぐ思い出した。
なんでそんなおかしな空想をしていたのか、自分でもよくわからなかったのだが、イメージソースの一つはTVアニメ「ドロロンえん魔くん」に登場した「まどろ眠」という妖怪ではないかと、今気付いた。
作中の創作妖怪「まどろ眠」は、船頭になった琵琶法師のような姿で、人間を深い眠りに誘う白い霧の中を小舟で漕いでくる。
霧の中には巨大な鮫の妖怪も泳いでくる。
子供の頃、その映像がものすごく恐ろしく、夜眠れなかったことがあったのだ。
何か深層意識に刺さるものがあったのだろう。
後に描いたマンガの中に、「死人の舟」の奇怪なイメージを使ったこともある。
投稿マヴォ「夜鳴き」より
その後もずっと気になっていて、折にふれ、類するものは調べたり作ったり描いたりしてきた。
友ヶ島年代記6 中世淡嶋願人
補陀落
補陀落渡海船
「船出」MBM紙 木炭 パステル
今回「三途の川の渡し舟」エピソードで、「病院に漕ぎいる幻の舟」「定員三人」という、気になるモチーフに出会った。
いずれまた、何か描くことになるかもしれない。
第一〇三話「仁王像と猫」
危機的状況を猫に救われた少女のエピソード。
屋外で見かける猫やカラス等の高知能の生き物は、注意を向けていると、向こうから色々サインを送って来ているかに思えることがある。
もしかしたら自分の思考が生き物の表情に反映されているだけなのかもしれないが、ともかくそのように感じることはある。
このエピソードの猫は「そんな気がする」と言う水準ではなく、明らかに意思疎通しているように感じられ、不思議である。
川奈作品の多くのエピソードを読み、それに引き出されるように自分の(はっきり「怪」と言うほどではない)体験を思い出してみると、怪異現象は全般に「偶発的な自然現象」と似た所があると感じる。
そちらにチューニングを合わせていなければ出会う頻度は低くなるし、普段から注意を払っていればよく出会う。
感覚的には「虹をよく見る人は怪異もよく見る」という傾向がありそうに思う。
そして最終話「鬼姫」へ。
著者自身の怪異譚から歴史上のエピソードへと広がり、一〇八つの物語の幕は閉じる。
多くの聞き取りの集積でありながら、著者の怪異がそれをやんわり包み込み、歴史へと繋がるこの感覚は、川奈作品の醍醐味でもある。
コロナ禍が猛威を振るい、今現在も感染拡大が留まるところを知らない2020年末。
仕事は在宅に、子供たちは休校になった今年前半からの流れで、自分の置かれた現在の状況、そしてこれまでの半生を振り返ることの多い一年だった。
夏以降も続く思うに任せぬ日々の中、子供らと学び、遊び、淡々とスケッチを続け、色々ともの想うかたわらにこの本があったことは、良い巡り合わせだったと思う。
2020年12月14日
疫病と暴虐とマスク
コロナ禍で三月から休校が始まり、四〜五月の自粛期間中、奇妙な夢を見た。
短いストーリーからキャラクターデザイン、名称まで一通り揃っており、夢を見てから時間を置かず「夢マンガ」に変換した。
投稿マヴォ「飛沫監視員」
その後、以下のような関連する夢を見た。(こちらは作品化していない)
間違いなくコロナ禍の現実が反映された夢である。
危険な感染症に対し、当時の安倍政権はあまりに無策、場当たりであり、「補給も無しに前線に玉砕を強いる」という、旧日本軍の愚昧をそのまま再現していた。(これは現在の菅政権でも同様)
戦前回帰的な虐待を強制される心象が、夢の中で過去の記憶を呼び覚ましたのだろう。
今度の敵は昔よりはるかに強力になっているけれども、潜在意識で気合負けしてないことが確認されて、満足な夢見でもあった。
中高生の頃、よく奇怪な夢を見た。
二十歳代半ばの頃、よく奇怪な夢を見た。
それらの夢の多くは、カテゴリ夢で紹介してきた。
中高生の頃は虐待指導を受けていた時期であり、二十歳代半ばは阪神淡路大震災で被災していた前後だった。
どちらも現実が過酷な時期だった。
昨年から継続して読み、このカテゴリ怪異でも紹介してきた川奈まり子作品には、こうした年代の怪異体験が多く収録されていた。
何かと抑圧の多い人生の一時期であり、私の場合はそれが「夢」の形をとって現れていたのかもしれない。
私が実際の犯罪や心の病に至らなかったのにはいくつかの要素が考えられ、「創作」「夢」「剣道」あたりに安全弁があったのではないかと言う自己分析は、これまでにも何度か書いてきた。
そしてこれはコロナ禍以前からのことであるが、私もその上限あたりに引っかかっている「団塊ジュニア」「ロスジェネ世代」が、自身の人生を振り返る中で、怪異体験を語り始める流れがあるらしいことは、過去記事で紹介した。
怪異とロスジェネ
私にとってのコロナ禍は、もちろん減収要因であったと同時に、自分の持てる能力を全開にして戦える契機でもあった。
絵や工作の指導経験は、子供たちの休校中の外出自粛生活を乗り切るために、もちろん役に立った。
中高生の頃、虐待指導で叩き込まれた受験技術ですら、子供たちの家庭学習に役立てることができた。
SNSで交流のある皆さんとのやりとりにも大いに啓発され、励まされた。
一年前には想像もできなかった生活の変化が起こった。
家庭の外ではマスクを着用することが日常になるなど、誰一人想像していなかったのではないだろうか?
不自由を感じる一方で、根っこの部分で孤独癖のある私は、普段から顔の半分を隠せることに、「安楽」を感じている部分もある。
通常の学校生活になじめない児童生徒の中には、休校やマスク常時着用に救いを感じる子らも多いことだろう。
仮面で素顔を半分隠すことは、素顔で何かを演じ続けるより、はるかに「楽」なのだ。
コロナ禍はまだまだこれからが本番になるのだろうけれども、この一年、考え、描き、感じたことを武器に、乗り切って行きたいと思う。
短いストーリーからキャラクターデザイン、名称まで一通り揃っており、夢を見てから時間を置かず「夢マンガ」に変換した。
投稿マヴォ「飛沫監視員」
その後、以下のような関連する夢を見た。(こちらは作品化していない)
気が付くと中高の頃に通っていた虐待指導の学校に、もう一度戻ってしまっていた。
地獄の極卒のような教師が、他の生徒に暴力をふるっている。
教室内は静まり返り、殴りつける音だけが響いている。
俺はいつ自分の番が回ってくるかと恐怖に震えている。
昔と違うところもあった。
意識も能力も、中身は今の俺なのだ。
「今度はやられっぱなしちゃうぞ。見とけよこら!」
そんな風に反撃の機会をうかがっていたのだ……
間違いなくコロナ禍の現実が反映された夢である。
危険な感染症に対し、当時の安倍政権はあまりに無策、場当たりであり、「補給も無しに前線に玉砕を強いる」という、旧日本軍の愚昧をそのまま再現していた。(これは現在の菅政権でも同様)
戦前回帰的な虐待を強制される心象が、夢の中で過去の記憶を呼び覚ましたのだろう。
今度の敵は昔よりはるかに強力になっているけれども、潜在意識で気合負けしてないことが確認されて、満足な夢見でもあった。
中高生の頃、よく奇怪な夢を見た。
二十歳代半ばの頃、よく奇怪な夢を見た。
それらの夢の多くは、カテゴリ夢で紹介してきた。
中高生の頃は虐待指導を受けていた時期であり、二十歳代半ばは阪神淡路大震災で被災していた前後だった。
どちらも現実が過酷な時期だった。
昨年から継続して読み、このカテゴリ怪異でも紹介してきた川奈まり子作品には、こうした年代の怪異体験が多く収録されていた。
何かと抑圧の多い人生の一時期であり、私の場合はそれが「夢」の形をとって現れていたのかもしれない。
私が実際の犯罪や心の病に至らなかったのにはいくつかの要素が考えられ、「創作」「夢」「剣道」あたりに安全弁があったのではないかと言う自己分析は、これまでにも何度か書いてきた。
そしてこれはコロナ禍以前からのことであるが、私もその上限あたりに引っかかっている「団塊ジュニア」「ロスジェネ世代」が、自身の人生を振り返る中で、怪異体験を語り始める流れがあるらしいことは、過去記事で紹介した。
怪異とロスジェネ
私にとってのコロナ禍は、もちろん減収要因であったと同時に、自分の持てる能力を全開にして戦える契機でもあった。
絵や工作の指導経験は、子供たちの休校中の外出自粛生活を乗り切るために、もちろん役に立った。
中高生の頃、虐待指導で叩き込まれた受験技術ですら、子供たちの家庭学習に役立てることができた。
SNSで交流のある皆さんとのやりとりにも大いに啓発され、励まされた。
一年前には想像もできなかった生活の変化が起こった。
家庭の外ではマスクを着用することが日常になるなど、誰一人想像していなかったのではないだろうか?
不自由を感じる一方で、根っこの部分で孤独癖のある私は、普段から顔の半分を隠せることに、「安楽」を感じている部分もある。
通常の学校生活になじめない児童生徒の中には、休校やマスク常時着用に救いを感じる子らも多いことだろう。
仮面で素顔を半分隠すことは、素顔で何かを演じ続けるより、はるかに「楽」なのだ。
コロナ禍はまだまだこれからが本番になるのだろうけれども、この一年、考え、描き、感じたことを武器に、乗り切って行きたいと思う。