●「一〇八怪談 鬼姫」 (竹書房怪談文庫)
長く書くこともできそうな実話怪談の聞き取りを、ストイックに刈り込んで見開き二ページにまとめたものが一〇八編。
はじめは「なんと贅沢な!」あるいは「ちょっともったいないかな?」と思いながら読み進めるうちに、印象が変わってきた。
一つ一つのエピソードを時間を置きながらゆっくり味わう内に、元々抑えた筆致の著者の作風に、むしろ合っているのではないかと思い始めたのだ。
なにしろ一〇八話のボリュームなので、中には過去の自分の記憶と重なるようなエピソードも多々あった。
怪異譚の話者は日本全国にまたがっているので、よく知る土地柄に親しみを感じることも度々あった。
少し読んでは本を閉じて反芻する内に、数か月が経ってしまった。
なんと長く楽しめる文庫本一冊であったことか(笑)
どのお話も面白いのだが、私が個人的に自分の知見に絡めて語れるエピソードについて、ネタバレにならないよう配慮しつつ紹介してみよう。
第一、二話は、視覚喪失に関する怪異。
私は弱視児童であったという生い立ちから、「視えて当り前」という意識は端から持っていない。
近年は徐々に老眼が進み、再び見えない生活に還っていくことを想定し、日々暮らしている。
四十歳の時に失明したという話者の方の体験に敬意を払いつつ、内容を受け止めた。
第七話「白髪」
私にも覚えがあり、川奈作品でも何度か取り上げられてきた、思春期の金縛りからはじまる怪異体験。
中学生の頃、いじめ被害から不登校、自殺願望へと進んでしまったというこの話者の遭遇体験も、強力な何者かとの「合体」とか、「守護を得る」と言うような意味合いがあったのではないだろうか。
怪異を契機とした苦境の克服というケースは、私も思い当たる所があるのだ。
第一二話「グランドオープン」
完成間際のショッピングモールでの、「華やかな」怪異。
このショッピングモールが何の跡地であったかが、やはり気になる。
盛り場や飲食店の類が、墓場や刑場の跡地に立つと繁盛するとも言われるが、さて。
このエピソードを読んでいた8月半ば、偶然「繁華街と墓」にまつわるニュースが流れた。
大阪・梅田で、江戸〜明治時代にあった「梅田墓」についての発掘調査中に、埋葬人骨1500体超が出土したと発表されたのだ。
折しもお盆の時期、賑やかな霊の集いの風景に思いを馳せた。
第三五話〜三八話は、難病の入院体験から始まる一連の「騒霊」タイプの怪異。
読んですぐ「どんぐりと山猫」「セロ弾きのゴーシュ」「月夜のでんしんばしら」等の宮沢賢治の童話を連想した。
恐怖と言うより、孤独を感じさせる主人公への「にぎやかし」のイメージである。
怪異は必ずしも、「怖い」ばかりではないと思わせるエピソード。
第三九話「顔振峠」
身内にふりかかった突然で理不尽な不幸にまつわる怪異だが、こちらは非常に恐ろしい。
何が恐ろしいかと言えば、私の身内に同じようなことが起こったら、タイプ的にきっと子細を調べてしまうだろうからだ。
そして現地に行ってしまい……
決して現地に近付かなかった話者は、非常に賢明な方だと感じた。
第四二話「門司の怪A」
耳鳴り、頭痛と霊聴にまつわる怪異。
私は数年前から、いわゆる「天気痛」が出るようになった。
低気圧の接近に伴い、軽い頭痛が起こるのだ。
経験的には、怪異と気圧や温度湿度は、わりと関連しているのではないかと感じている。
それらが変化する時、空気は流れて「気配」は動くし、各種素材の伸縮も起こる。
頭痛や耳鳴りのような身体症状も起こる。
それらが複合された時、受け手の心の中に何かが「表現」されてしまうことは、あり得ると思っている。
第四三話「その女の姿」、第四四話「幽霊画の秘密」
どちらも「姿を見せない」怪異。
絵描きは日常的に経験することだと思うが、「描きすぎ」は絵の呪力を失わせがちだ。
描かないことで効果が上がるなら、いっそ描かない方が良い。
それでも修練を積んだ自分の腕を頼み、ついつい描き過ぎてしまうのが絵描きの習性だ。
そう言えば幼児の頃、何も描いていない紙を見るのが寂しかったり怖かったりした。
特に色画用紙が怖くて、そのまま目の前にあることが耐えきれずに、恐怖を埋めるようにお絵描きしていたことを、ふと思い出したエピソードだった。
第五三〜五六話、および閑話休題
憑霊、祓い師に関する一連のエピソード。
普通に生きる分には何も憑いていない方が良いのだろうけれども、「憑いている」と言うか「合体している」感じで、共存しているケースはある。
件の「しのびちゃんと熱くなる石」の方も、おそらくそのような怪異との付き合いかたではないだろうか。
第六九話「白い腕」
大学演劇学科での怪異。
私は90年代の学生時代から卒業後の数年間、関西の小劇場に参加していた。
当時から演劇に怪異が付き物であるのは、わりと「常識」だったことを思い出した。
特に「人が死ぬ芝居」で、それは起こりやすいと言われていた。
スピーカーに異音が入ったり、照明がふいに点滅したりという機材トラブルは起こりやすく、実際に「何か見る」のは役者が多かった。
私の場合は屋外で装置を作っている時、ものすごく狙いすましたようなタイミングで突風が吹き、工具や画材を手から奪われるというようなことがあった。
本番前の神社参拝は、無用のトラブルを避けるための「実用」みたいな感じでとらえられていた。
付言すると、現在の私はいわゆる「霊現象」を、留保抜きでそのまま信じているわけではない。
本番に向けてキャスト・スタッフ一丸となって神経を研ぎ澄まし、演技やオペの精度を上げ、場の空気に敏感になることが、何か起こった時の「気づき易さ」に繋がっていた面はあると思っている。
たぶん、小さな「何か」は日常的に起こっているのだ。
第七三話「嫁の呪い」
親族間の怨念は増殖しやすく、延焼すると一族まるごと地獄のようになってしまうことがある。
どこかで切り離しが必要で、そういう意味では都市化、核家族化の良い面もあるなと考えさせられるエピソード。
第七九話「喫茶店の観音菩薩」
観音菩薩像の写真を巡る霊験譚の体裁だが、著書も最後に記している通り、喫茶店のママが主役だ。
客に写真に手をかざさせて対話し、時に身体的な癒しを与える様は、振り子等を使うダウジングとも似ていると思った。
第八四〜八五話、貍にまつわる怪異。
現代の都市生活だと「貍にバカされる」というのは、それこそバカバカしく感じられるが、ほんの一昔二昔前なら、それは普通に語られていた。
とくに夏の終わりから秋にかけて、食欲旺盛な貍たちが人里に現れやすいこの時期には。
はっきり「怪異」と言うほどではないけれども、私も昔「ばかされた?」と感じた経験がある。
過去記事「つ、つ、つきよだ」

あれは何年前のことだっただろうか?
季節は秋、月夜のことだった。
帰り道に川沿いの公園を通りかかった時のこと、前方にトコトコ動く影が見えた。犬よりは丸く、猫よりはかたい。
タヌキだ。
当時住んでいたのは山の麓にある都市部で、住宅地でもたまにこうした野生動物を見かけたものだ。
私がかまわず前進すると、その分タヌキはトコトコと遠ざかり、こちらを振り向く。また前進すると、またトコトコ遠ざかってから振り向く。
はじめはそのタヌキをどうこうするつもりはなかったが、そういう態度をとられると、ついついかまいたくなってきてしまう。
足を速めてタヌキに迫ってみた。
タヌキはキョロキョロしながら、公園の歩道から外れて緑の中に入り、また振り返る。
私はすっかり意地悪な気分になって、さらに追い込みをかけた。
タヌキは慌てて植え込みの中に消えていった。
軽い遊びに満足した私がふと足元に気付いてみると、そこには犬の糞がゴロゴロ転がっていた。
もしかして、ばかされた?
(つづく)