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2023年04月06日

病み抜ける青春:「ムツゴロウ」畑正憲さんのこと

 本日、畑正憲さんの訃報があった。

 ムツゴロウ・畑正憲さんは、何人かいる私の「心の中の大先達」のお一人で、中高生の頃強い影響を受けた。
 一般にはTV「ムツゴロウの動物王国」で、動物たちと戯れていた風変わりなおじいさんというイメージが強いかもしれないが、格闘技やギャンブル、囲碁将棋などの勝負事にも造詣が深く、自身で達者なイラストも描き、映像作家の一面もあり、もちろん本職(?)は動物学者で……
 肩書きを並べれば並べるほど、ことの本質が見えなくなってしまうようで幻惑されてしまうのだが、それはともかく、数々の修羅場を潜り抜け、超人的なエピソードを持った「怪人」であった。

 十数年前の雑誌インタビューでの、動物との接し方についての答えを引用してみよう。

「植物はみんなそうですよね。ポッと出るんですけど、そこから落ちて病気みたいになる。でもまた殻を破って出てくる。それを囲碁の世界でも病み抜けるって言うんです。そうすると技量がフッと上がるんです。動物に対してもあれこれ考えて、ああしたらいいか、こうしたらいいとかっていろいろ思っててはダメです」


 ここでの「病み抜ける」という言葉は、実際の健康状態とは無関係に使用されているが、畑正憲さんこそが文字通り肉体を酷使して「病み抜ける」ことで数々の伝説を残してきた人だった。
 自分を極限まで追い込みながら苦難をむしろ楽しんで、そこから生還してくる様は、まるでサイヤ人の不屈の生命力を見るようだった。

 ムツゴロウ名義のTVタレントとしての活動が良く知られているけれども、私は畑正憲名義の著作の愛読者だ。
 中でも明暗織り交ぜた内面が赤裸々に描かれた自伝的な作品が好きで、何度も繰り返し読んでいる。
 中でも最初に書かれた自伝『ムツゴロウの青春記』は、今も色あせぬ青春文学の名著ではないかと思う。

 関連作品とともに、紹介しておこう。
 

●『ムツゴロウの少年記・青春記・結婚記』畑正憲(いずれも文春文庫)
 時系列で並べると上のようになるが、まずは『青春記』をお勧めしたい。
 中学生の頃の私はこの一冊の影響下で過ごしたと言っても過言ではない。
 物事を習得するということ、「学ぶ」ということの根本、若い時代の無鉄砲、後の奥さんとの出会い、数多くの個性的な先生との出会い……
 いまも私はお尻にその貝殻を引きずっている感じがする。


●『ムツゴロウの放浪記』畑正憲(文春文庫)
 上の三冊の続編にあたるのがこの『放浪記』で、私はたぶんこの一冊を畑正憲さんの著作の中でもっとも再読した。
 TV等でおなじみの明るいキャラクターは畑さん生来の資質であるけれども、光には必ず影がついて回る。
 ピカソの「青の時代」に似た雰囲気がある、と書けば、この作品の雰囲気の一端を表現できるだろうか。
 優れた才を持ちながら、かえって光に背を向けてしまうような陰鬱な青春時代。
 東大を離れ、奥さんを一人残し、流れ流れてどこまでも遠く旅は続き、その果ての病み抜け。
 そして闇の中、再び立ち上がるシーンで筆は置かれている。
●『命に恋して―さよなら「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」』畑正憲(フジテレビ出版)
 タイトル通り、TVシリーズ「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」の終了に合わせて出版された一冊だが、実質はこれまでに執筆されてきた自伝的作品の続編になると思う。畑正憲さんが繰り返してきた文字通りの「病み抜け」の中の、ごく近年の体験についても触れられている。

 そして、著作の中でも突出していると思われるのが、以下の一冊。


●『さよならどんべえ』畑正憲 (角川文庫)
 ちょっと表現する言葉が見つからないぐらい凄まじい一冊。
 「ムツゴロウさんは昔、北海道でクマと暮らしていたらしい」ということを知る人は多いだろう。
 しかしイメージだけで言えば一見牧歌的にさえ感じられるそのエピソードの実態を知る人は少ない。
 畑正憲さんは檻の中でヒグマを「飼育」し、サーカスのように鞭とアメで芸をさせていた訳ではないのだ。
 生まれたばかりの小熊をなるべく野生に近い状態で育てるために家族そろって無人島に移住し、やや成長してやむなく檻に入れた後も、自ら檻に入って生身で相対してきたのだ。
 そしてどうしようもなくやってくるどんべえの「親離れ」のとき。
 野生のヒグマが親離れ、子離れするための対決する時を、畑正憲さんは「親」として身をもって体験することになる。
 その「対決」のあと、やがてあっけなくやってくるどんべえとの別れ。
 悪化していく畑正憲さんの体調と不思議なリンクを感じさせる死は、読後ずっと記憶に残り続ける。
 数ある著作の中でも、特別な一冊ではないだろうか。
 今こうして短い紹介文を書いているだけでも、内容が蘇ってきて背筋がぞくぞくしてくる。
 人体というものは、生物学的には他の動物に比べて、その大きさの割りにとてつもなく脆いものだ。
 そういう人間が十分に成長したヒグマとまともに「親離れ」の儀式に臨み、生還したということ自体が、まず空前絶後だろう。
 そしてその生還者が稀有の作家であったという事例は、おそらく人類史上で二度と繰り返されることがないのではないか。

 自然だけ
 人間だけ
 事実だけ
 文学だけ

 そのどれでもなくて、自然と人間、事実と文学が渾然一体となった凄みが、この一冊に凝縮されている。
 同角川文庫『どんべえ物語』の続編にあたるので、あわせて読むのがお勧めだが、単独でも十分読める。



 私も五十才を過ぎ、色々青年期のことを振り返る日々である。
 中高生の頃に影響を受けた作品について、このカテゴリ青春文学でぼちぼちまとめて行きたいと思う。
posted by 九郎 at 19:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 青春文学 | 更新情報をチェックする

2023年04月14日

最強バトルの彼岸へ:マンガ『チェンソーマン』のこと その1

 流行りとはすっかり無縁のおっさんなので、最近はもうマンガで何が人気かすら知らない。
 そんな中、遅まきながらマンガ『チェンソーマン』(藤本タツキ)にハマっている。

マンガ『チェンソーマン』1〜11巻

 アニメになったことも知らなかったのだが、好きなバンドのマキシマム ザ ホルモンがエンディングテーマを担当したらしいという情報から作品に辿り着いた。
 エンディング曲『刃渡り2億センチ』の出来が物凄く良く、原作マンガの序盤だけでも読んで世界観を知り、曲を味わう参考にするつもりで読み始めたら、すっかりハマってしまった。
 勢いで既刊十三巻分を一気に読了。
 作風でいうと好みそのもので、今まで手に取らなかったのが不思議なくらいだ。
 以前ネットで話題になった同じ作者のある作品が「良くない」と感じ、同じ人だとは認識していなかったけれども、そのせいで無意識の内に避けていたかもしれない。

 単行本十一巻までで一区切りの第一部完結。
 一読、凄まじい傑作だと感じた。
 正直、絵や展開は粗いと思う所も多々ある。
 しかしそういうマイナスが全て作品にとってのプラスに逆転するのが、良い週刊連載マンガで起こるマジックだ。
 下手にじっくり構えて引き伸ばさず、初期衝動のまま突っ走って第一部完結まで描き切ったのが素晴らしい。
 おそらく作者自身が「生粋の週刊連載少年マンガ好き」なのだろう。
 本当に好きでたくさん読んできて、下手に丁寧になって勢いを失ったり、無理な引き延ばしで終われなくなった残念なマンガもたくさん見てきて、ナチュラルに「俺ならこうする!」というビジョンがはっきりしていたのだろう。
 作品自体は第一部完結後、間をおいて再開された第二部連載が続いているが、作者自身による質の高い二次創作、または外伝的なエピソードから語り始められている。
 あまり描かれてこなかった「悪魔の存在する世界の一般人の日常」を踏み台に、第一部からの主要キャラがじわりと再登場し、本編へとつながる構成。
 第一部が凄まじすぎ、人気マンガ家の先生と言えど、キャリアの中でそうそう描けるレベルではないはずなので、賢明な仕事の続け方だと思う。

 完結した第一部を二か月ほどかけてじっくり再読を繰り返し、色々思うところがあったので、感想をまとめてみたいと思う。
 以下、ネタバレ上等で書き散らすのでご注意。

【世界観】
 マンガ『チェンソーマン』は週刊少年ジャンプ連載としては必ずしも読者に親切な作品ではない。
 読者がそれぞれに補完すべき謎や余白部分が多い作品で、そのことが再読や様々な考察を楽しむ余地を残してくれている。
 基本的には現代劇として描かれているが、いくつかの点で現実とは違う世界線になっている。
 ソ連という国名が残っていたり、携帯端末が見当たらなかったり、TVがブラウン管らしく描かれていたり、喫煙がさほど厳しく扱われていなかったり、日本でも多くの墓標に十字架が使われていたりなど、色々違いがあるようだ。
 核兵器をはじめとする様々な世界史上の重要要素が消失しており、その消失には「チェンソーの悪魔」が関与していることが、第一部終盤で明かされている。
 第二部に入った最新十四巻の描写によると、時代設定は90年代終盤であるらしく、改めて色々辻褄が合う。

 現実と一番大きく異なるのは物質的な肉体を持った「悪魔」が存在することで、この世の人間界と合わせ鏡のような悪魔の世界である「地獄」も存在し、互いに影響し合っているとされる。
 作中の「地獄」や「悪魔」の有り様には、現世の人間の想念、とりわけ「恐怖」が反映されるらしい。
 悪魔は人間が恐怖を抱く「名前」の数だけ無数に存在し、その名が恐れられるものほど力が強い。
 地獄の深奥には「超越者」として、「闇」等の根源的な恐怖の名を持つ何体かの強大な悪魔が存在するが、出現することは稀である。
 地獄では常に悪魔同士が闘争しており、中には人間界に転生してくるものもいる。
 根源的「超越者」が人間界に出てくることは第一部の時点ではほぼ無かったらしく、人間界と地獄を往還する悪魔達は比較的「格下」で、ある意味「社会性」を持っている。
 悪魔が人間界に干渉し始めたのがいつ頃か、明確には描かれていないが、最短でも二十年程度は経っているらしい。
 悪魔と人間界の接触が長期に及んだためか、人間の体を悪魔が乗っ取った「魔人」や、稀には悪魔の能力を組み込んだ人間(ここでは「半分悪魔」と仮称する)も存在している。
 作中では度々悪魔による殺傷事件が起こっており、中には大規模テロや戦争状態に匹敵する被害もあったという。
 そうした悪魔の被害に対抗するのが「デビルハンター」で、大きく分けて民間と公安所属の二種がある。
 デビルハンターは基本的には人間で、対悪魔の戦闘力を得るために、人間に友好的な悪魔と契約して能力を借り受ける者が多い。
 悪魔の能力を借りるためには代償が必要で、肉体の一部や寿命など、かなり過酷な契約内容を課される。
 公安のデビルハンター機関には、人間だけでなく悪魔や魔人、ごく少数の「半分悪魔」も存在する。
 作中の「十三年前」にはアメリカで「銃の悪魔」による100万人規模の大量殺戮事件があった。
 事件後姿を消した強大な銃の悪魔を捜索して滅ぼすため、世界各国のデビルハンター機関が捜索を続けているというのが、物語のスタート地点の情勢である。

 続いて主要登場人物を見ていく。

【主人公・デンジ】
 屑父親の虐待を受け、父の死後は孤児となって義務教育すら受けられないままに放置され、ヤクザに騙されて支払い義務の無い親の債務に縛られた十六才の少年である。
 唯一の友だちは「ポチタ」と呼ばれる小型愛玩犬のような悪魔で、頭部にチェンソーが生えており、実際にチェンソーとして使うことができる。
 ポチタとは数年前、屑父親の死の直後に偶然出会っている。
 怪我で瀕死のポチタに自分の血を飲ませて命を助け、代わりに自分を助けるという「契約」をすることで、デンジと小さな悪魔の共同生活が始まった。
 その後デンジはヤクザに指示されるままに、ポチタを使って木を切ったり、もぐりのデビルハンターをやったりしてその日暮らしを続けている。
 二人でなんとか暮らして行くことで充足はしていたが、悲惨な境遇から脱するための教養を得る機会はない。
 長年の虐待やネグレクトから習慣性の無気力状態になっており、作品のスタート地点では債務返済のために片目や一部臓器を売り飛ばされ、健康は損なわれてしまっている。
 やがて奴隷労働させられていたヤクザに使い捨てにされ、ポチタもろとも殺害されるが、ポチタが心臓となって合体。
 変身してチェンソーの悪魔の力を使える人間として復活し、自分たちを殺したヤクザと悪魔を皆殺しにして借金奴隷生活から解放される。
 現場に駆けつけた公安デビルハンター機関の要職、マキマに身柄確保され、以後は公安所属のデビルハンターとして働くようになるまでが第一話である。

 デンジの性格は、まわりにまともな大人がおらず、義務教育も受けていない成育歴を反映してか、十六才という年の割には非常に未成熟に描かれている。
 欲求は極めて即物的で、他者への共感能力は低い。
 ポチタと合体後は無気力状態を脱し、やや明朗さを回復している。
 ずっと夢見ていた「普通の生活」に対しては極めて貪欲で、良く言えば率直で嘘がない。
 こうしたデンジの性格は「主人公に必要なマンガ的誇張」という面もありつつ、「幼少期からの虐待やトラウマで感情が凍りついている」という解釈もあり得る設定にしてあるのが巧い。
 マンガ『チェンソーマン』は、一面では過酷な境遇で凍り付いた少年の心が、様々な戦いや触れ合いを通じて回復する物語なのだ。
 作中の悲惨な成育歴そのままでなくても、デンジにシンクロする少年読者がたくさんいるのは理解できる。
 見た目はなんでも与えられているようでいて、本当に必要なものには出会えず、自分で何が欲しいかも分からず育った思春期の「魂の迷い子」たちは、デンジが一つ一つ実体験を積み重ねて心を取り戻す様に、みな共感するだろう。

【マキマ】
 いきなり最重要のネタバレから語り始めてしまう。
 マンガ『チェンソーマン』第一部のラスボスがマキマに確定したのはいつ頃のことなのだろうか?
 当初の予定通りなのか、週刊連載マンガ的に「キャラが勝手に動いた」結果なのか、正確な所はわからない。
 第一話の登場時から只者ではない雰囲気はあったが、本格的に怖さが出始めたのは、「サムライソード編」での京都からの遠隔呪殺シーンからだろう。
 直前の「永遠の悪魔」編でデンジの属するデビルハンター特異四課チームの面々、とくに女性ハンター姫野先輩の存在がクローズアップされた流れを打ち消すように、一気にメンバーをリセットしてしまった襲撃事件は、後にマキマの「黙認」の結果であることが示唆される。
 その後のマキマは、常に自ら手を下して物語の流れに介入するようになり、ラスボスのオーラを漂わせ始める。
 当初は「銃の悪魔」との対決に向けて盛り上がる構図であったのが、途中からマキマが大きく成長して物語を簒奪したと見るのが順当だと思う。
 マキマがふと漏らした意味ありげなセリフの積み重ねが、週刊連載のマジックを発動させたのではないだろうか。

 謎めいたマキマの言動を理解するには、彼女がたまに垣間見せる「創作者気質」に注目したい。
 後に「支配の悪魔」であったことが判明するが、はじめから他者を完全に自我を失った傀儡にすることは少ない。
 多くの場合、個性はなるべく残したまま、ゆるいコントロール下に置いて、やりとりを楽しんでいる節がある。
 デンジとの対話で「夢の実現」について、「追いかけていた頃のほうが幸せだった」という述懐にことのほか反応したり、出来が良い悪いに関わらず映画鑑賞を好み、感情移入の機微を楽しんだりする様は、真意が極めて掴みにくいマキマの表出の中でも、意外に本音に近いのではないだろうか。
 マキマはその気になればいとも簡単に他者を支配下に置くことができるが、クリエイターの感覚も持っているので、キャラを安易に傀儡にしてしまうと物語が死ぬことも知っている。
 そしておそらく、傀儡にされた者は自我を失うことで力も減じてしまうことも知っている。
 それでは「つまらない」のだ。
 特異四課メンバーとの他愛のない飲み会の翌日、京都に向かう新幹線の車中でふと漏らした言葉も、本音に近いのではないだろうか。

「偉い人達と会いたくない」
「みんな怖いんだもん」
「昨日のお酒美味しかった」

 支配の悪魔の自分と等質なものを「偉い人達」に感じ取り、剥き出しの権力志向にはうんざりしながら、無礼講の酒席を愛でる感覚。

 マキマは支配の悪魔としてどのような相にあるのか、作中で明確には描かれていない。
 頭部に目に付く特徴がないことから「魔人」ではなさそうで、素直に受け取れば「悪魔」そのものだろう。
 マキマが支配の悪魔そのものだとすると、最後まで大きく変わらなかったあの年若い人間の女性の姿をどう考えるか?
 人間界での支配に特化した結果であった可能性はある。
 初手では魅了してコントロール下に置き、一たび敵対すれば凄惨な能力とのギャップで恐怖を植え付ける例が、作中でも数多く描かれている。
 人間の姿をとっていることから、デンジ等と同じ「半分悪魔」の可能性も考えられる。
 その場合、人間体は何者なのかという妄想も湧く。
 本来の支配の悪魔とは別に、あのマキマの姿形を持った人間体があったとすると、どんな人物像が考えられるか?
 幼少期から何者かの完全な支配下に置かれ、「ハイかワン」以外の返事が禁じられ、一般社会から切り離された虐待被害者、という可能性が考えられる。
 マキマの正体について、「人間側」で早い段階からよく分かっていたと思われるのが、「血の悪魔」が少女に取り憑いた魔人、パワーだ。
 普段は極めて傲慢で自己中心的なパワーが、マキマの前に出ると完全に怯え、「優秀で怖い姉にビビった妹」のような態度になることから、関わりがかなり深く長いことが伺われる。
 共に眼と髪色に特徴があり、嗅覚が鋭いことも気になる。
 或いはマキマとパワーの間には、人間体でなんらかの関りがあったのかもしれない。
(続く)
posted by 九郎 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2023年04月15日

最強バトルの彼岸へ:マンガ『チェンソーマン』のこと その2

(続き)
チェンソーマン コミック 全11巻セット
チェンソーマン コミック 全11巻セット

【早川アキ】
 早川アキはデビルハンター特異四課でデンジの先輩、そしてルームメイトとして登場。
 幼少期に「銃の悪魔」の無差別大量殺戮で家族を失い、マキマの影響下で「復讐マシーン」になっている。
 同居したデンジやパワーの「兄」の役割をはたすことや、先輩女性ハンターである姫野の壮絶な死をきっかけに、人間性を取り戻していく。
 マキマがアキの「命の恩人」だということの詳細は作中で描かれていないが、大まかな輪郭は想像できる。
 孤児になった当初のアキは、惨禍のあまりの巨大さに理解が追い付かず、「なにかの災害にあった」ようにしか感じられなかっただろう。
 家族を失い、とりわけ弟に冷たくしたまま別れたことで、自分の心を苛んだに違いない。
 自分を責める少年に「銃の悪魔」という明確な仇敵を教え、復讐ための肉体的な修練と、ハンターという生業を与えたのがマキマだったのだろう。
 兄として弟に優しく接してやれなかった後悔に、「悪魔への復讐心」を上書きすることで、マキマはアキをコントロール下に置き、生きながらえさせたのではないか。

 作中のアキは、二十歳前後の男性としてはかなり几帳面に家事全般をこなしている。
 基本的には「堅物」だが、飲酒喫煙も含め、適度に生活を楽しんでいる。
 これはおそらく同じチームの先輩女性ハンター、姫野の感化で、「復讐マシーン」からやや人間性を取り戻している。
 若い男性のデンジとアキはわりとチョロくマキマのコントロールに「喜んで従う」状態にあるが、女性の姫野やパワーは「マキマのヤバさを知っているので敵対しない」という微妙な間合いが感じられて興味深い。
 アキ、デンジ、パワーの「早川家」三人が生活の楽しみを知るようになったのは、姫野から波及したものだろうけれども、それすらマキマの掌の上という怖さが、後に明かされる。
 年若い男にはありがちなことだが、アキは自分の傷や渇望にかかりきりで、せっかくの姫野先輩の好意が見えなくなってしまっている。
 欠落だらけの自分を好いてくれ、人間に戻そうと気遣い、命まで捧げてくれる人のかけがえの無さが、失ってみてはじめてわかるのだ。
 姫野の仇敵、蛇女の傀儡と化したゴーストを切り、サムライソードのタマを蹴って姫野へのレクイエムとした後のアキは、明らかに戦意を低下させている。
 手のかかるデンジやパワーと多少距離を置き、性格的に屈折した「天使の悪魔」と対話しながら、何事か内省を進めている気配がある。
 その後、各国デビルハンター機関の「デンジ争奪戦」で、ますます戦いは厳しさを増す。
 そして普通の人間レベルではとうてい通用しない「地獄巡り」で片腕を失ったアキは、憑き物が落ちたように心変わりする。
 しばしのオフの日々の中、デンジやパワーを帯同した亡き家族の墓参の描写にそのことが端的に表れている。
 もういない家族の復讐より、今現在の「家族」の優先度が高くなり、その心の変化はデンジにも波及している。
 戦うための肉体が損なわれたことで、マキマのコントロールが弱まったということもあるかもしれない。
 マキマに置き換えられた「復讐心」は、元の「兄として弟に接してあげられなかった後悔」に戻り、それが「目の前の弟と妹への責任感」となって、心の欠落が満たされたのだろう。
 あれほど執念を燃やしていた銃の悪魔との戦いを、直前になって抜ける決断をした折の岸辺隊長とのやり取りが、マキマのコントロールがほぼ解けたことを物語る。

「怖気づきました」
「おまえも随分まともになっちまったな」

 結局その後すぐに銃の悪魔の襲来に備えて強制的に「支配」されるのだが、一度は人間に戻ったことが、マキマの意図を超えていたのかもしれない。

 あまりに強大な銃の悪魔への備えとしては、アキに戦力としての意味はなかっただろう。
 未来の悪魔との契約は元々微力であるし、呪いの悪魔への対価の寿命は、もういくらも残っていなかっただろう。
 マキマははじめから、アキをデンジに差し向けるための生贄にするつもりだったのだ。

 アキが「銃の魔人」になった過程は直接描かれていないので、解釈には幅がある。
 マキマは十分に銃の悪魔を弱らせ、追い込んだ所でアキの肉体を差し出し、取り憑かせたのだろう。
 おそらく過去にも同じような「手口」を使っているはずで、血の悪魔から魔人パワーを作ったのはマキマである可能性もあると見ている。
 アキの肉体が乗っ取られた「銃の魔人」は、完全に銃の悪魔の意識で動いているわけでは無く、わずかにアキの意識も残留している。
 元々銃の悪魔に明確な人格は無く、巨大な破壊衝動だけであったのかもしれない。
 アキの意識が残っているのは、「帰巣本能」を利用するためにマキマが敢えて残したのか、或いはアキが最後の精神力で完全に支配されることを拒んだのか。

 アキは幼い頃から、両親が病弱な弟にかかりきりだったため、自分の欲求を抑えることを義務付けられていた。
 抑制的に振舞うことが習い性になっており、羽目をはずして「わがまま」に振舞うのは、もしかしたら銃の魔人になって初めてできたことなのかもしれない。
 理不尽な「わがまま」をデンジにぶつけることができて、初めて二人は対等な友達になれたのだ。
 日が暮れるまで友達と思う存分遊び狂うのは、孤独なアキにとっての長年の夢だったのではないだろうか。
 それがかなえられたので、最期は本来の弟とのキャッチボールの約束の場所に戻ることができ、思い残すことなく眠れたのだ。

 ライブ的な表現である週刊連載では、当初の構想を越えたキャラクターの成長が醍醐味のひとつだ。
 構想段階からがっちり固まりがちな主役クラスは自由度が低く、意外に脇役の方に本物の感情が宿ることはままある。
 本作では早川アキがそれにあたり、読者を感情移入の面で引っ張っている。
 少年マンガには超絶の主人公のそばに「普通の人」の視点が必要で、普通の人が努力で超絶の世界にくらいつくからこそ、そこを通して世界観をつかめ、感情移入ができる。
 普通の人が掘り下げた感情描写に映し出され、マンガ的類型になりがちな主人公の心情も、より掘り下げられる。
 マンガ『チェンソーマン』第一部の感情移入の面でのピークは9巻の早川アキのエピソードで、10〜11巻の展開上の怒濤のクライマックスは、その余波で畳み掛けたからこそ盛り上がったのだろう。
 宿命を背負って巨大な仇敵を倒すことを志し、身を削った努力型で戦闘力を高める早川アキは、古式ゆかしい少年マンガの主人公像に近い。
 一方でデンジも、親に捨てられ、魂の飢餓感をエネルギーに暴れまわる悪童型で、こちらも少年を惹きつけるヒーロー像に近い。
 対照的な二人が「兄弟」として出会い、時にぶつかりながら共闘し、最後に対等の友だちになるまでが、この物語の一つの柱なのだ。

(続く)
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2023年04月16日

最強バトルの彼岸へ:マンガ『チェンソーマン』のこと その3

全巻セットチェンソーマン 1-14巻
全巻セットチェンソーマン 1-14巻

【ラスボス・マキマ】
 物語は当初「銃の悪魔退治」の構成だった。
 しかしその後の流れから推察すると、国際情勢の中で銃の悪魔とマキマは相互でエスカレートするように力を増し、両方恐れられた結果「潰し合い」に持ち込まれたようだ。
 銃の悪魔は極めて強いけれども、それは兵器として強力であるというだけで、契約で管理下に置くことは可能と判断されたらしい。
 当初は各国で肉体を分割管理していたが、アメリカに一任することで、対マキマ用兵器として使用されることになった。
 人の心をコントロールし、他の悪魔を自在に使役、要人呪殺も可能なマキマの脅威の方が差し迫っていると判断されたのだろう。

 銃の悪魔を葬り「一強」となったマキマは、いよいよ支配の悪魔の本性が剥き出しになってくる。
 人間界をそれなりに楽しむ創作者気質は弱まり、再びチェンソーと相まみえるという目的に向け、他者の支配に躊躇や余裕がなくなる。
 支配された者たちだけでなく、マキマ自身も空疎な化け物になり果てていく。

 物語後半では暴走するマキマだが、序盤から中盤にかけては人間界で人との交わりや文化を満喫している雰囲気がある。
 支配欲はさほど剥き出しではなく、それなりの職業意識を持って人間社会を「保護」している風だ。
 年若いデビルハンターの面々に親しげに「○○くん」「○○ちゃん」と呼びかけ、「頼れる姉」としての役割を果たそうとしているように見える。
 実際は少し怖がられ、距離を置かれているらしいことも分かっていて、特異四課が一堂に会したあの飲み会には、親睦を深める意味でわりと乗り気で参加したのかもしれない。
 他愛のない駆け引きや軽い恋愛ゲームの雰囲気も楽しみ、今度は自分で主催してみようと、お店をあれこれ探しもしたらしい。
 その後すぐにサムライソード編の襲撃事件があり、事態の悪化を恐れた部下たちと飲む機会は失われてしまった。
 若い面々は頼りにならないので、唯一自分と対等にサシ飲みできそうな岸辺隊長を、デンジとパワーの訓練の慰労を兼ねていい感じの店に誘ってみたら、不信の言葉のナイフで刺されてしまった。

 こうして振り返ってみると、マキマにも少々同情の余地はある。

 人間界に馴染んで「支配欲」よりややマイルドな「保護欲」であったものが、銃の悪魔の脅威や人間の権力志向に刺激されて肥大化するのが中盤〜終盤にかけて。
 アメリカ大統領の「今マキマを殺さなければ、人類に最悪の平和が訪れてしまう」から始まるセリフは、かなりマキマの本質に迫っているのではないか。

 マキマが断片的に語った内容によると、支配の悪魔とチェンソーは地獄で一度戦い、勝負がつく寸前にチェンソーが姿を消したらしい。
 ポチタが瀕死の姿でデンジと出会った時がそれにあたるのかははっきりしないが、順番としてはそのようになる。
 支配の悪魔は「他者との対等な関係」を夢見ていたというが、つりあいそうな相手はチェンソーしかおらず、「習性」に従って一度は支配を試みて戦う他無かったのだろう。
 チェンソーは戦えばどちらかが消滅し、どちらの夢も叶わないことを悟り、ストーカーから避難するように現世へ逃げたのではないか。

 マキマは第一話の段階からデンジに対して強い興味を抱いて見えたが、それは結局「自分との戦いから逃亡したチェンソーが人間界で選んだこの少年は、一体どれほどの者なのか?」という様子見だったのだろう。
 そしてある時期から「デンジ自身はとるにたらぬ平凡な少年に過ぎない」と見切りをつけた。
 地獄のヒーロー・チェンソーマンであることに倦み疲れたポチタが、人間界の平凡な少年に抱きしめられ、同じ平凡な夢を見ることで癒されていたことが、マキマには最後まで理解できなかったのだ。
 ポチタと合体後もデンジの夢は「普通」でしかなく、力を増しつつあったマキマはそれに失望したのだろう。
 マキマの「悪魔から一人でも多く人を救いたいだけ」という大義名分はおそらく本音で、だからこそチェンソーマンと組んで人類を支配下に置き、滅びの道から救おうとしたのだろう。
 しかしそれは、あの生き生きとしていたキャラたちがマキマの虚ろな傀儡と化した有り様を全人類に拡大するもので、アメリカ大統領曰く「最悪の平和」にあたるものになっただろう。
 デンジ(あるいはポチタ)はそれに対し、「アンタが作る最高に超良い世界にゃあ糞映画はあるのかい」と最後に問いかけた。
 決戦前直前の対話が映画についてであったのは、サムライソード編直後のデンジとマキマの映画館ハシゴデートから繋がる。
 このデートの挿話は、中盤までのマキマが本来の「支配の悪魔」の習性から離れた所で人間を理解し、楽しんできたであろうことがうかがわれる。
 この時点でのマキマは「糞映画」すら含めて愛していたのだ。
 デート直後のボム編以降、急激に物語は緊迫感を増す。
 デンジに世界中から注目が集まり始めたのは、当初は「銃の悪魔の差し金」という設定だった。
 しかし後から振り返ってみると、「マキマがチェンソーを飼っている状況」への、各国の危機感のあらわれであったのかもしれない。
 事態緊迫前のマキマは他愛のない飲み会を心から楽しみ、糞映画の中から宝物のワンシーンを探し出す余裕を楽しんでいた。
 もし「デビルハンターの要職」という立場がなかったら、支配の悪魔そのものにならずに済む可能性もあったのではないか。
 それは岸辺の第一部ラスト近くのセリフにもつながる。

「このままお国にまかせて育てさせたら、またマキマみたいになっちまうだろうな」

 マキマの転生である幼女ナユタをデンジに託した際の言葉からは、過去にマキマを「発見」し、デビルハンター機関に組み込んだことに、岸辺自身が関与していたようなニュアンスも読み取れる。

 支配の悪魔は往還する中では最強クラスだが、「支配」は社会性の中でしか成立しないから、人間界でうまくなじめる可能性が出てくる。
 銃の悪魔に対抗するために力を強め過ぎたこと、世界の支配層の恐怖と敵意を一身に受けたこと、執着していたチェンソーが目前に現れたことで、本性が暴走してしまったのだろう。

 デンジの心の回復にあたっては、同居し、仕事の上でも共同するアキやパワーの影響が濃密だ。
 しかし要所要所では、義務教育すら受けておらず、自己肯定感がゼロに等しいデンジを、マキマが率先してひとまず受け入れ、即物的な性欲を情緒に結び付けたり、レベルを合わせて教養を説き、導いている。
 後にそうしたケアは「デンジを絶望させ、自我を破壊してチェンソーを召喚するため」の前段階だとされるのだが、それは各国支配層の抱く恐怖が供給され、「支配の悪魔」そのものになり切ってからの述懐だ。
 初期段階のマキマにはそこまでの狙いはなく、単に「頼れる姉」として接していた可塑性はある。

 マキマにとってはデンジもアキも姫野もパワーも「小さき者」に過ぎず、正直とるに足りなかったはずだ。
 やりとりを楽しんでいる節はあるが、格下に見ていたのは間違いない。
 しかし姫野を起点とする「日々の生活を楽しむ細やかな心」はアキ、デンジ、パワーと伝えられ、やがてマキマを封じる力へと成長する。
 惜しみなく情愛を注いでもらう体験が、注がれた方の情愛を育てる。
 姫野はアキを育て、アキはデンジとパワーを育て、デンジはパワーを育てた。
 逆方向で、情愛を注ぐことによる成長も連鎖する。
 ニャーコからパワー、パワーからデンジ、デンジからアキ、アキから姫野へ。
 自ら望んだことではないが、情愛のつながったアキとパワーの死に加担してしまったことで、デンジの心は一度死ぬ。
 そこから救い出してくれたのは、あれほど自己中心的で、あれほど心底マキマを恐れていたパワーがマキマに逆らい、命を懸けてまで自分をかばってくれた自己犠牲だった。

 人間界での生活を楽しみ、人間一人一人の感じ方について興味を持つに至ったであろうマキマだが、デビルハンター機関の要職として保安の職務をこなすうちに「小さな個人」の優先度は下がり、やがて支配の悪魔の本性に還ると全く眼中になくなり、自分と対等以上のチェンソーしか目に入らなくなった。
 デンジとパワーは「とるにたらぬ者」として切り捨てられたが、それ故にマキマには見えなくなり、最後は死角を突いてマキマを滅ぼすことができた。
 その後幼女ナユタになって再び人間界に転生したのは、時間をかけて滅びながら、チェンソーがポチタになったことの意味を、ようやく理解できたのかもしれない。
 デビルハンター機関の「よくできた頼れる姉」として振舞っていたマキマが、見下していたデンジやパワーに敗北することで、はじめて「我」を折った。
 とりわけ、あのパワーが自分に造反してまでデンジを守ることを選んだことのショックは大きかったのではないだろうか。
 戸惑いとともにパワーがうらやましくなり、「自分もデンジの妹になってわがままを聞いてもらいたい」と望んだ結果が、転生した幼女ナユタの姿だったのかもしれない。

(続く)
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2023年04月17日

最強バトルの彼岸へ:マンガ『チェンソーマン』のこと その4

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(続き)

【地獄のヒーロー・チェンソーマン】
 物語の核心「地獄のヒーロー・チェンソーマン」とは、結局何者だったのか?
 単純に「チェンソーの悪魔」と言ってしまえばそこまでだが、もう少し妄想で掘り下げてみる。
 マキマの周到な召喚によりデンジの自我が破壊され、現世に引きずり出されたチェンソーは、暴風のような破壊と暴力の化身で、微妙な個性は読み取りにくかった。
 チェンソーに限らず、作中描写でも単に悪魔であるだけの者は、強力ではあるけれども魅力や明確な個性は乏しい。
 人間と交流し、あるいは魔人化したり、合体した者こそ、単純な悪魔の状態より弱体化はするが、自己主張する愛すべきキャラクターが出ている。
 物語中盤登場の「暴力の魔人」は興味深く、性格はほぼチェンソーと相似している。
 魔人化(=弱体化)し、毒の仮面で力を抑制され、落ち着いてものが考えられる状態をけっこう気に入っており、出来た余裕で人間界を楽しんでいる節がある。
 人間界に紛れ込んだチェンソーや支配の悪魔にも、同じような匂いが感じられる。
 チェンソーが空疎な力比べ、最強バトルの繰り広げられる地獄から抜けた理由も、そのあたりに鍵がありそうだ。
 人間と混じった他の悪魔と同様、チェンソーもデンジとの合体で「薄められた」状態の方が、個性が見えやすくなっている。
 合体前のデンジは、おかれた環境に無気力に隷従し、ポチタとその日暮らしをすることだけが望みだった。
 しかし合体後、とくに変身後のデンジは闘争本能が強く出て、哄笑とともに暴れることを好んだ。
 ポチタだけを友達に、ひたすらやり過ごすだけだった日々を埋め合わせ、遊び狂うように、デンジは嬉々として悪魔と戦う。
 悪魔は安心して狂える遊び相手で、その遊び場に迷い込んだか弱き人間は、その都度エリアから逃がす。
 中盤サムライソード編以降のような「対等以上」の遊び相手であればあるほど、変身後のデンジは狂喜する。
 それはまさに、バトルマンガの主人公の化身のような姿だ。

 もしかしたら「地獄のヒーロー・チェンソーマン」とは、バトルマンガを好むタイプの少年たちの破壊衝動や闘争心が地獄に投影された、「中二病の悪魔」ではないだろうか。
 工作機械や内燃発動機への偏愛の要素も、そうした解釈を補強しそうだ。
 暴れたい、飲み食いしたい、遊びたい等の小児的欲求に忠実なサブカルヒーローと言えば、有名所では「斉天大聖」あたりまで遡れる。
 少年バトルマンガの主人公の多くはかのマジックモンキーの系譜であるし、そのものずばりの名を引き継いだ人気キャラもいる。
 チェンソーはそのダークサイドに相当しそうだ。

 チェンソーは強さ比べの地獄に倦み疲れ、人間界に逃亡し、支配の悪魔はそれを追って潜入。
 ファンを自認(実際はストーカー)する支配の悪魔は、チェンソーがポチタとなって少年と二人きりの生活に充足していることは当然捕捉済み。
 ゾンビの悪魔を使って邪魔な少年デンジを殺害させた可能性すらあると見ている。
 やっとチェンソーを我がものにできるといそいそ駆けつけてみれば、そこにポチタの姿はなく、あらたな契約を結んで心臓にポチタを組み込んだ「チェンソー擬き」のデンジがいた。
 そんな妄想による補完をして読み返してみても、さほど矛盾は感じない。

 もう一つ、「地獄のヒーロー・チェンソーマン」には「思春期の少年少女が抱くリセット願望の投影」のような要素も感じられる。
 誰かが「助けてチェンソーマン」と呼べば必ず現れ、敵も助けを求めた当人も皆殺しになる。
 それは糞な日常にうんざりした少年少女にとっては、一つの「救い」に感じられるだろう。
 地獄でチェンソーに殺された悪魔は「人間界送り」になり、食われた悪魔は完全消滅するという。
 人間界に転生した悪魔は、地獄のような純粋な弱肉強食ではない生き方を経験する。
 悪魔は本来シンプルな思考で、ある意味「子供っぽい」精神性を持つが、人間界の経験から独自の成熟を見せる者もいる。
 とくに魔人や「半分悪魔」等、何らかの形で人間と合体して力が限定され、人間社会の中でものが考えられる状態になると、その成熟は促進される。
 チェンソーが瀕死の状態まで弱体化したポチタの場合は、「人間以下」の成育環境のデンジと出会うことで同じ夢を見、合体して実際の「普通の暮し」の夢へと向かう。
 支配の悪魔がチェンソーに執着したのも、あるいはリセット願望の現れであったのかもしれない。
 しかしチェンソーは自らマキマを食って完全消滅させることを避けた。
 デンジに対応を譲ることで、支配の悪魔に成り切ってしまったマキマを一旦リセットし、弱体化した幼女の状態で、パワーに代わる「手のかかる妹」として再びデンジに出合わせた。

「最強バトルを求める心」
「心が殺される日常へのリセット願望」

 そんな願望が結集した地獄のヒーロー・チェンソーマンは、そこから抜けて「人間界の何でもない日常」を求めた。
 デンジと出会って一旦充足するが、二人きりの閉じた世界は、やがてデンジを殺してしまうであろうことに気付いた。
 デンジと合体し、チェンソーマンの能力を一部開放することで持続的に日常を楽しもうとするが、地獄から追跡してきたマキマに再び最強バトルの世界へと誘い込まれる。
 ポチタはそうした「現世の地獄化」に直接付き合わず、決着をあくまで人間であるデンジに委ねた。
 そして人間デンジは、およそバトルマンガの定型からかけ離れた形でマキマの鎮魂に成功した。
 心も体も欠損だらけだった孤独な少年が、地獄から持ち越された因縁を全て引き受け、バトルマンガの在り方をリセットしてしまうまでに成長する物語。
 第一部については、そんな解釈をしている。

 単行本11巻までの第一部で物語は一度収束しているが、前述のように「余白」の多い作品なので、いつの日か読んでみたいエピソードは数多い。
 マキマと岸辺、そして「最初のデビルハンター」クァンシの前日譚など、妄想の種は尽きない。

 今現在も連載の続く第二部では、いよいよ地獄の深奥から「超越者」である根源的な恐怖の名を持つ悪魔が召喚され、90年代終盤の「終末」の接近を予感させる展開になりつつある。
 世の終末、ハルマゲドンは、ある意味「最強バトルとリセット願望の最終形」であり得る。
 デンジとナユタ、そして「戦争の悪魔コンビ」のアサとヨルは、そこにどのように関与していくのか?

 今後も『チェンソーマン』から目が離せないのである。
(「最強バトルの彼岸へ」了)
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