全巻セットチェンソーマン 1-14巻
【ラスボス・マキマ】
物語は当初「銃の悪魔退治」の構成だった。
しかしその後の流れから推察すると、国際情勢の中で銃の悪魔とマキマは相互でエスカレートするように力を増し、両方恐れられた結果「潰し合い」に持ち込まれたようだ。
銃の悪魔は極めて強いけれども、それは兵器として強力であるというだけで、契約で管理下に置くことは可能と判断されたらしい。
当初は各国で肉体を分割管理していたが、アメリカに一任することで、対マキマ用兵器として使用されることになった。
人の心をコントロールし、他の悪魔を自在に使役、要人呪殺も可能なマキマの脅威の方が差し迫っていると判断されたのだろう。
銃の悪魔を葬り「一強」となったマキマは、いよいよ支配の悪魔の本性が剥き出しになってくる。
人間界をそれなりに楽しむ創作者気質は弱まり、再びチェンソーと相まみえるという目的に向け、他者の支配に躊躇や余裕がなくなる。
支配された者たちだけでなく、マキマ自身も空疎な化け物になり果てていく。
物語後半では暴走するマキマだが、序盤から中盤にかけては人間界で人との交わりや文化を満喫している雰囲気がある。
支配欲はさほど剥き出しではなく、それなりの職業意識を持って人間社会を「保護」している風だ。
年若いデビルハンターの面々に親しげに「○○くん」「○○ちゃん」と呼びかけ、「頼れる姉」としての役割を果たそうとしているように見える。
実際は少し怖がられ、距離を置かれているらしいことも分かっていて、特異四課が一堂に会したあの飲み会には、親睦を深める意味でわりと乗り気で参加したのかもしれない。
他愛のない駆け引きや軽い恋愛ゲームの雰囲気も楽しみ、今度は自分で主催してみようと、お店をあれこれ探しもしたらしい。
その後すぐにサムライソード編の襲撃事件があり、事態の悪化を恐れた部下たちと飲む機会は失われてしまった。
若い面々は頼りにならないので、唯一自分と対等にサシ飲みできそうな岸辺隊長を、デンジとパワーの訓練の慰労を兼ねていい感じの店に誘ってみたら、不信の言葉のナイフで刺されてしまった。
こうして振り返ってみると、マキマにも少々同情の余地はある。
人間界に馴染んで「支配欲」よりややマイルドな「保護欲」であったものが、銃の悪魔の脅威や人間の権力志向に刺激されて肥大化するのが中盤〜終盤にかけて。
アメリカ大統領の「今マキマを殺さなければ、人類に最悪の平和が訪れてしまう」から始まるセリフは、かなりマキマの本質に迫っているのではないか。
マキマが断片的に語った内容によると、支配の悪魔とチェンソーは地獄で一度戦い、勝負がつく寸前にチェンソーが姿を消したらしい。
ポチタが瀕死の姿でデンジと出会った時がそれにあたるのかははっきりしないが、順番としてはそのようになる。
支配の悪魔は「他者との対等な関係」を夢見ていたというが、つりあいそうな相手はチェンソーしかおらず、「習性」に従って一度は支配を試みて戦う他無かったのだろう。
チェンソーは戦えばどちらかが消滅し、どちらの夢も叶わないことを悟り、ストーカーから避難するように現世へ逃げたのではないか。
マキマは第一話の段階からデンジに対して強い興味を抱いて見えたが、それは結局「自分との戦いから逃亡したチェンソーが人間界で選んだこの少年は、一体どれほどの者なのか?」という様子見だったのだろう。
そしてある時期から「デンジ自身はとるにたらぬ平凡な少年に過ぎない」と見切りをつけた。
地獄のヒーロー・チェンソーマンであることに倦み疲れたポチタが、人間界の平凡な少年に抱きしめられ、同じ平凡な夢を見ることで癒されていたことが、マキマには最後まで理解できなかったのだ。
ポチタと合体後もデンジの夢は「普通」でしかなく、力を増しつつあったマキマはそれに失望したのだろう。
マキマの「悪魔から一人でも多く人を救いたいだけ」という大義名分はおそらく本音で、だからこそチェンソーマンと組んで人類を支配下に置き、滅びの道から救おうとしたのだろう。
しかしそれは、あの生き生きとしていたキャラたちがマキマの虚ろな傀儡と化した有り様を全人類に拡大するもので、アメリカ大統領曰く「最悪の平和」にあたるものになっただろう。
デンジ(あるいはポチタ)はそれに対し、「アンタが作る最高に超良い世界にゃあ糞映画はあるのかい」と最後に問いかけた。
決戦前直前の対話が映画についてであったのは、サムライソード編直後のデンジとマキマの映画館ハシゴデートから繋がる。
このデートの挿話は、中盤までのマキマが本来の「支配の悪魔」の習性から離れた所で人間を理解し、楽しんできたであろうことがうかがわれる。
この時点でのマキマは「糞映画」すら含めて愛していたのだ。
デート直後のボム編以降、急激に物語は緊迫感を増す。
デンジに世界中から注目が集まり始めたのは、当初は「銃の悪魔の差し金」という設定だった。
しかし後から振り返ってみると、「マキマがチェンソーを飼っている状況」への、各国の危機感のあらわれであったのかもしれない。
事態緊迫前のマキマは他愛のない飲み会を心から楽しみ、糞映画の中から宝物のワンシーンを探し出す余裕を楽しんでいた。
もし「デビルハンターの要職」という立場がなかったら、支配の悪魔そのものにならずに済む可能性もあったのではないか。
それは岸辺の第一部ラスト近くのセリフにもつながる。
「このままお国にまかせて育てさせたら、またマキマみたいになっちまうだろうな」
マキマの転生である幼女ナユタをデンジに託した際の言葉からは、過去にマキマを「発見」し、デビルハンター機関に組み込んだことに、岸辺自身が関与していたようなニュアンスも読み取れる。
支配の悪魔は往還する中では最強クラスだが、「支配」は社会性の中でしか成立しないから、人間界でうまくなじめる可能性が出てくる。
銃の悪魔に対抗するために力を強め過ぎたこと、世界の支配層の恐怖と敵意を一身に受けたこと、執着していたチェンソーが目前に現れたことで、本性が暴走してしまったのだろう。
デンジの心の回復にあたっては、同居し、仕事の上でも共同するアキやパワーの影響が濃密だ。
しかし要所要所では、義務教育すら受けておらず、自己肯定感がゼロに等しいデンジを、マキマが率先してひとまず受け入れ、即物的な性欲を情緒に結び付けたり、レベルを合わせて教養を説き、導いている。
後にそうしたケアは「デンジを絶望させ、自我を破壊してチェンソーを召喚するため」の前段階だとされるのだが、それは各国支配層の抱く恐怖が供給され、「支配の悪魔」そのものになり切ってからの述懐だ。
初期段階のマキマにはそこまでの狙いはなく、単に「頼れる姉」として接していた可塑性はある。
マキマにとってはデンジもアキも姫野もパワーも「小さき者」に過ぎず、正直とるに足りなかったはずだ。
やりとりを楽しんでいる節はあるが、格下に見ていたのは間違いない。
しかし姫野を起点とする「日々の生活を楽しむ細やかな心」はアキ、デンジ、パワーと伝えられ、やがてマキマを封じる力へと成長する。
惜しみなく情愛を注いでもらう体験が、注がれた方の情愛を育てる。
姫野はアキを育て、アキはデンジとパワーを育て、デンジはパワーを育てた。
逆方向で、情愛を注ぐことによる成長も連鎖する。
ニャーコからパワー、パワーからデンジ、デンジからアキ、アキから姫野へ。
自ら望んだことではないが、情愛のつながったアキとパワーの死に加担してしまったことで、デンジの心は一度死ぬ。
そこから救い出してくれたのは、あれほど自己中心的で、あれほど心底マキマを恐れていたパワーがマキマに逆らい、命を懸けてまで自分をかばってくれた自己犠牲だった。
人間界での生活を楽しみ、人間一人一人の感じ方について興味を持つに至ったであろうマキマだが、デビルハンター機関の要職として保安の職務をこなすうちに「小さな個人」の優先度は下がり、やがて支配の悪魔の本性に還ると全く眼中になくなり、自分と対等以上のチェンソーしか目に入らなくなった。
デンジとパワーは「とるにたらぬ者」として切り捨てられたが、それ故にマキマには見えなくなり、最後は死角を突いてマキマを滅ぼすことができた。
その後幼女ナユタになって再び人間界に転生したのは、時間をかけて滅びながら、チェンソーがポチタになったことの意味を、ようやく理解できたのかもしれない。
デビルハンター機関の「よくできた頼れる姉」として振舞っていたマキマが、見下していたデンジやパワーに敗北することで、はじめて「我」を折った。
とりわけ、あのパワーが自分に造反してまでデンジを守ることを選んだことのショックは大きかったのではないだろうか。
戸惑いとともにパワーがうらやましくなり、「自分もデンジの妹になってわがままを聞いてもらいたい」と望んだ結果が、転生した幼女ナユタの姿だったのかもしれない。
(続く)