blogtitle001.jpg

2023年12月04日

英賀合戦幻想3 石山合戦年表(仮)

 間が空いたが、信長と本願寺の十年戦争「石山合戦」における、播磨の局地戦「英賀合戦」についての覚書の続き。
 今回は石山合戦を通した年表を一度まとめておく。

【石山合戦関連年表】(あくまで仮のもの。随時訂正)
■開戦まで
1534(天文三年)
 信長、尾張国勝幡城で織田信秀の嫡男として生まれる。
1543(天文十二年)
 顕如、摂津国石山本願寺の第10世住職、証如の子として生まれる。
1554(天文二十三年)
 顕如12歳、父の死により第11世住職に。
1557(弘治三年)
 顕如15歳、近江国の六角定頼の養女になっていた如春尼と結婚。
1558(永禄元年)
 本願寺教如誕生。父・顕如16歳、母・如春尼15歳。
1560(永禄三年)
 織田信長27歳、桶狭間の戦いで今川義元を破る。
1564(永禄七年)
 教如7歳、弟・顕尊誕生。
1565(永禄八年)
 中国の雄・毛利元就が、嫡孫で13歳の輝元に家督を譲る。
 吉川元春、小早川隆景の両川が補佐。
1567(永禄十年)
 朝倉義景と和議。教如10歳、義景の娘と婚約。
 黒田官兵衛22歳、家督を継ぎ姫路城城代に。
1568(永禄十一年)
 信長35歳、15代将軍足利義昭を擁して上洛、本願寺と堺に矢銭を課す。

■石山合戦
1570(永禄十三年/元亀元年)
 信長、越前朝倉攻めを開始。
 近江浅井、朝倉方につく。
 木下藤吉郎34歳、金ケ崎退き口で殿の功を上げる。
 信長、姉川の戦いで朝倉浅井を退け、琵琶湖東岸を抑える。
 信長、野田城・福島城の戦いで三好三人衆と交戦。
 その最中、全国の一向一揆蜂起で、石山合戦始まる。
 顕如28歳、信長37歳。
 第一次伊勢長島攻めで、一向一揆勢、織田信興を逆に自害に追い込む。
 教如13歳、得度。
1571(元亀二年)
 信長、比叡山焼き討ち。
 毛利元就、75歳で病没。
1572(元亀三年)
 武田信玄の斡旋により、本願寺と信長、一旦和睦。
 藤吉郎36歳、羽柴氏に改名。
1573(元亀四年/天正元年)
 武田信玄、急死。朝倉義景、浅井長政、自害。
 第一次信長包囲網、瓦解。
 信長40歳、足利義昭を畿内から追放、室町幕府滅亡。
 信長、第二次伊勢長島攻めをするも、攻略できず。
 官兵衛28歳、信長に謁見。
1574(天正二年)
 伊勢長島一向一揆、壊滅。信長による大量虐殺。
1575(天正三年)
 信長42歳、長篠の戦で武田勝頼を破る。
 大阪攻め。
 越前一向一揆、壊滅。
 本願寺と信長、講和の誓紙を交わす。
1576(天正四年)
 信長、安土城に入る。
 本願寺、天王寺砦の戦いで敗北、織田軍に包囲される。
 足利義昭、毛利を頼って鞆城に入る。
 毛利傘下の村上水軍、第一次木津川の戦いに大勝し、本願寺に兵糧を搬入。
1577(天正五年)
 官兵衛32歳、英賀合戦で功を上げ、国府山城を居城に。
 信長44歳、ほぼ全軍を率いて第一次雑賀攻め。
 鈴木孫一(おそらく50歳前後)、寡兵をもって織田軍を退ける。
 教如20歳、弟・准如誕生。
1578(天正六年)
 上杉謙信、急死。
 毛利水軍、第二次木津川の戦いで織田水軍に敗れ、本願寺孤立。
 播磨の筆頭格・別所長治、織田に叛旗。三木合戦開始。
 官兵衛33歳、秀吉に兵糧攻めを提案。
 荒木村重44歳、有岡城で謀反。官兵衛が説得に向かうが、逆に幽閉される。
1579(天正七年)
 信長、有岡城陥落、官兵衛救出される。
1580(天正八年)
 三木合戦終結で、織田方の事実上の播磨制圧。
 秀吉の侵攻により、英賀城焼失。
 顕如38歳、信長と講和。大坂を退去し、紀州鷺森へ。
 これにより、石山合戦終結。
 教如23歳、講和を不服とし、本願寺に籠城(大坂拘様)。
 顕如、教如を義絶。
 教如、4ヶ月後には退去。同日、失火により本願寺焼失。
 教如は当初雑賀に匿われるが、以後一時消息不明。

 石山合戦終結後も、本願寺方勢力、瀬戸内の水軍についての始末は続く。

■戦後
1581(天正九年)
 官兵衛36歳、第二次鳥取攻めにおいて「鳥取渇え殺し」で攻略。
1582(天正十年)
 秀吉46歳、高松城水攻め。官兵衛37歳の提案。
 本能寺の変により、信長49歳急死。
 秀吉、中国大返しの後、山崎の戦で明智光秀を破る。
 顕如、教如26歳と和解が成立。
1583(天正十一年)
 秀吉47歳、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。
 大阪城の建設に着手。
1584(天正十二年)
 秀吉48歳、小牧・長久手の戦に出陣。
1585(天正十三年)
 秀吉49歳、第二次雑賀攻めで紀伊平定。
 官兵衛40歳を軍監に、長宗我部元親の諸城を破り、四国平定。
 関白の座に就く。
 顕如43歳、秀吉の薦めで大坂天満に本願寺を遷す。
1586(天正十四年)
 秀吉50歳、正親町天皇から豊臣姓を賜り、太政大臣に就任。
1587(天正十五年)
 秀吉51歳、北野天満宮で大規模な茶会を開催。
 豊臣家の本邸となる聚楽第を構える。
1588(天正十六年)
 秀吉52歳、刀狩令及び海賊停止令を発布、施行する。
1590(天正十八年)
 秀吉54歳、小田原攻め。
1591(天正十九年)
 秀吉55歳、奥州平定。
 甥の秀次を養子に迎え、関白職を譲る。自身は太閤となる。
 朝鮮出兵に先立ち、肥前国・唐津に名護屋城の築城を始める。
 顕如49歳、京都七条に本願寺を遷し、教団を本格再興。
1592(天正二十年/文禄元年)
 秀吉56歳、文禄の役で朝鮮に出兵。
 顕如50歳、死去。
1593(文禄二年)
 秀吉57歳、側室・淀殿が後の秀頼を出産。
1597(慶長二年)
 秀吉61歳、慶長の役で再度朝鮮に出兵する。
1598(慶長三年)
 秀吉62歳、醍醐の花見の後、病により死去。
1600(慶長五年)
 関ヶ原の戦いで、天下の趨勢は徳川氏に。

 石山合戦後半、瀬戸内海を中心とした西日本も絵図にしてみた。
 まだざっとスケッチ程度で、旧道も盛り込めるとかなりわかりやすくなると思うが、今はこれでいっぱいいっぱい(笑)
 信長は安土城で琵琶湖と淀川を封鎖し、本願寺の北陸との連携も断っている。
 後半戦は雑賀衆と毛利水軍頼みになった本願寺の情勢が見えてくると思う。

himejiezu012.jpg
(クリックで画像拡大)
posted by 九郎 at 18:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年12月14日

英賀合戦幻想4 黒田官兵衛から見た石山合戦

 一介の絵描きであるので、専門に学んだわけでもない歴史については適切な人物に感情移入し、その人物の視点から流れを理解することを、ほとんど唯一の手法としている。
 戦国播磨の場合なら、フィクションも含めて参照し、想像の中である程度人物像を結べそうなのは黒田官兵衛くらいしか見当たらない。
 以下、基本的な史実をおさえながら、官兵衛を通した当時の播磨の情勢を追ってみよう。
 前回記事の内容とも多く重なるが、播磨の情勢を加筆してまとめてみたい。(例によって随時加筆訂正)

【黒田官兵衛と播磨】
1546(天文十五年)
 御着城城主小寺政職(まさもと)の家老、黒田職隆(もとたか)の嫡男として出生。
1565(永禄八年)
 中国の雄・毛利元就が、嫡孫の輝元に家督を譲る。
 吉川元春、小早川隆景の両川が補佐。
1567(永禄十年)
 官兵衛22歳で家督を継ぎ姫路城城代に。
 志方城城主櫛橋氏の娘・光姫を正室に迎え、翌年嫡男(後の黒田長政)出生。

 黒田家は官兵衛の父の代から御着城城主小寺家の家老。
 主家の小寺は播磨で有力な赤松氏の分家で、代々その重臣を務めてきた。
 黒田家はそのまた家老ということで、流浪の境遇であった官兵衛の祖父の代からすれば立身していたが、才気ある若者にとっては、必ずしも心のままに活躍できる身分ではなかったかもしれない。

1568(永禄十一年)
 織田信長、15代将軍足利義昭を擁して上洛。
 本願寺、堺に矢銭を課す。

 この時期、織田と毛利は播磨等を挟んで領国を接していなかったこともあり、一応協力関係にあった。
 同時期の播磨勢も大方は織田に与している。

1570(永禄十三年/元亀元年)
 木下藤吉郎34歳、金ケ崎退き口で殿の功を上げる。
 信長、姉川の戦いで朝倉浅井を退け、琵琶湖東岸を抑える。
 石山合戦始まる。
1571(元亀二年)
 信長、比叡山焼き討ち。
 毛利元就、病没。
1572(元亀三年)
 武田信玄の斡旋により、本願寺と信長、一旦和睦。
 藤吉郎36歳、羽柴秀吉に改名。
1573(元亀四年/天正元年)
 武田信玄、急死。朝倉義景、浅井長政、自害。
 信長、足利義昭を畿内から追放、室町幕府滅亡。

 この時期、28歳の官兵衛は信長に謁見。
 生まれ育った播磨と違い、実力次第で身を立てられる織田家中を目の当たりにしている。

1574(天正二年)
 伊勢長島一向一揆、壊滅。
1575(天正三年)
 信長、長篠の戦で武田勝頼を破る。
 越前一向一揆、壊滅。
1576(天正四年)
 信長、安土城に入る。
 足利義昭、毛利を頼って鞆城に入る。
 上杉謙信、本願寺と和睦して反織田に。
 毛利傘下の村上水軍、第一次木津川の戦いに大勝し、本願寺に兵糧を搬入。
 織田と毛利の対立が決定的となる。

 瀬戸内の制海権を失った織田方は陸路で対抗せざるをえなくなり、播磨掌握の重要度は増す。
 この時期も播磨の多数派は織田方についているが、毛利方との関係を重視する勢力もあり、内部では割れ始める。

 この頃まで織田方の播磨侵攻は荒木村重が担当していたが、羽柴秀吉が代わるようになる。
 官兵衛は秀吉の播磨での相談役を務め、竹中半兵衛とも交流することで才を磨く。
 羽柴は織田家臣団の中でもとくに実力主義が徹底していたであろうし、また苦労人で話の分かる秀吉とは馬が合い、自分の力を天下に試す夢が描けたということかもしれない。

1577(天正五年)
 官兵衛32歳、毛利方についた播磨勢が英賀城に毛利水軍を引き入れようとする動きを、寡兵をもって退けることに成功。(英賀合戦)
 信長のもとへ嫡男を人質として送り、信頼を得ることに努め、国府山城(こうやまじょう)を修復、居城とする。
 信長、ほぼ全軍を率いて紀州に向かい、第一次雑賀攻め。(播磨勢は信長方について出兵)
 鈴木孫一、寡兵をもって織田軍を退ける。
1578(天正六年)
 上杉謙信、急死。
 毛利水軍、第二次木津川の戦いで織田水軍に敗れ、瀬戸内東部の制海権を失う。
 本願寺孤立。
 播磨の筆頭格・別所長治、織田に叛旗。(三木合戦開始)
 荒木村重44歳、有岡城で信長に謀反。
 官兵衛が説得に向かうが、逆に幽閉される。

 籠城が長期化した三木合戦の期間中、本願寺は度々紀州雑賀衆に援軍を出すよう要請している。
 雑賀衆も一応兵を出してはいるものの、それまでの華々しい活躍からすれば「申し訳程度」にとどまる。
 信長による雑賀攻めで疲弊していたこともあろうし、雑賀攻め当時は織田方で出兵していた播磨勢に対し、含むところがあったのかもしれない。

1579(天正七年)
 竹中半兵衛、病没。
 有岡城陥落。
 官兵衛救出されるも、しばらく静養。
1580(天正八年)
 秀吉の「干し殺し」により、三木合戦終結。
 織田方の事実上の播磨制圧により、本願寺は信長と講和。
 顕如は大坂を退去し、紀州鷺森へ。
 石山合戦終結後も局地戦は続く中、秀吉の侵攻により、英賀城焼失。
 官兵衛35歳、秀吉より姫路城の普請を命じられる。
 信長から篠ノ丸城を与えられ、居城として修理。

 羽柴勢に協力した播磨での攻城戦および築城の経験が、城普請や城攻めの名手としての黒田官兵衛を育て、以後秀吉の軍師として重用される。
 秀吉の播磨平定後の官兵衛の後半生は以下の通り。

1581(天正九年)
 官兵衛36歳、鳥取城を兵糧攻めで攻略。
1582(天正十年)
 官兵衛37歳、備中高松城で水攻めを提案し成功させる。
 本能寺の変により、信長急死。
 秀吉、中国大返しの後、山崎の戦いで明智光秀を破る。
1583(天正十一年)
 官兵衛38歳、大坂城の普請奉行となる。
 キリスト教の洗礼を受ける。
1585(天正十三年)
 官兵衛40歳、秀吉の四国攻めで長宗我部元親の諸城を落とす。
1586〜87(天正十四〜十五年)
 官兵衛41〜42歳、九州攻めで島津氏の諸城を落とす。
1588〜89(天正十六〜十七年)
 官兵衛43〜44歳、中津城、高松城、広島城築城。
 家督を嫡男長政に譲る。
1590(天正18年)
 官兵衛45歳、小田原城を無血開城させる。
1592(天正二十年/文禄元年)
 官兵衛47歳、秀吉の二度の朝鮮出兵の築城総奉行となり、拠点の名護屋城築城。
1593(文禄二年)
 官兵衛48歳、出家して如水を名乗る。
1598(慶長三年)
 秀吉62歳、醍醐の花見の後、病により死去。
1600(慶長五年)
 55歳、関ヶ原の戦いのどさくさに九州で天下を窺うも、情勢を見て矛を収める。
1604(慶長九年)
 59歳、伏見で死去。


 フィクションの中の黒田官兵衛については、過去記事で司馬遼太郎『播磨灘物語』を紹介したことがある。



●『播磨灘物語 全四巻』司馬遼太郎(講談社文庫)

 マンガ作品では平田弘史『黒田三十六計』が、独自のこだわりで調べ上げ、超絶画力で描き上げた戦国絵巻として飛び抜けている。

黒田・三十六計 コミック 1-8巻セット (SPコミックス) - 平田 弘史
黒田・三十六計 コミック 1-8巻セット (SPコミックス) - 平田 弘史

 関連して、戦国時代の播州を絵図にまとめてみた。

himejiezu013.jpg
(クリックすると拡大)

 これもあくまで叩き台。
 直すべきところはいくらでもあろうけれども、ひとまず上げておく。
posted by 九郎 at 18:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年12月20日

英賀合戦幻想5 英賀寺内町焼失

 続いて戦国末期の姫路周辺をクローズアップして絵図にしてみた。(例によってあくまで叩き台)

himejiezu014.jpg
(クリックすると画像拡大)

 現在の姫路城は「姫山城」としてスタートした。
 姫山城の立地は元々東西陸上交通の動脈である山陽道沿いにあり、北へは市川沿いに生野銀山へ、南は飾万津へとつながるルートもあり、また廣峯神社や書写山円教寺等の古くからの寺社とも近い。
 東の市川を渡ると国府山城(甲山城または妻鹿城とも呼ばれる)、黒田官兵衛の主家である小寺家の御着城がある。
 姫山城は小寺家が城代を務めてきたが、戦国末期には御着城の支城として黒田家に任されていた。
 播磨が秀吉の勢力下に入ってから順次拡張整備が進み、今に続く「姫路城」は江戸期に完成した。

 石山合戦以前、姫路近辺で栄えていたのは西の夢前川と水尾川の播磨灘に面した合流点にあたる英賀の地だ。
 播磨国風土記から地名が出ている英賀は、戦国期には三木氏が支配し、英賀神社と本徳寺御堂の寺内町を擁して港湾機能を備えた広大な城砦が築かれていた。
 瀬戸内海西部の毛利水軍との関係も深く、石山合戦後半に毛利勢と大坂本願寺との中継地として数年間攻防が繰り返された過程が「英賀合戦」である。
 天正四〜五年、毛利水軍が本願寺への加勢で英賀に入るところを黒田官兵衛が寡兵をもって退けたとされ、天正八年に大坂本願寺の退去で石山合戦が終結後、羽柴勢に包囲されて英賀城は焼失。
 城内の英賀御堂も焼失するが、後に秀吉の勧めで飾万津からやや北に入った亀山の地に本徳寺は移転している。
 現在の亀山本徳寺にはかなり英賀御堂の物が伝わっており、「一方的に火攻めで滅ぼされた」というよりは、合戦中も何らかの移転交渉は行われており、徐々に文物が運び出されていたということかもしれない。
 本願寺が大坂から退去しただけで済まされず、秀吉によって英賀城の破却まで完遂されたのは、「寺内町」の解体を目的としていたのだろう。
 英賀は武家の支配と本願寺、在来の神社、海運が一体となった典型的な寺内町で、海路によって他の寺内町とネットワークされていたことが強みだった。
 秀吉はそうした要素を巧みに解体し、姫路の都市計画を再編している。
 武家支配の中心は主要な陸路の交差する姫山へ、港湾機能と海運・商工業者は隣接する飾万津へ、播磨の本願寺門徒の中心たる本徳寺は水運とは切り離して亀山へ、さらに後年の海賊停止令で海上交通も完全に支配下に置いたのだ。

 江戸期に入ると姫路沿岸部の遠浅の海は新田開発で埋め立てられ、明治以降は工業用地の埋め立てが進んで海岸線はかなり南に移動した。
 現在の山陽電鉄より南は、元々はほとんど海であったと考えてよいだろう。
 かつて広く開けた播磨灘に面して栄華を極めた英賀城跡は、埋め立て地に深く包み込まれて海から離れ、住宅街で上書きされて、興味を持って探さなければ史跡も目につかない。
 城内の英賀御堂に至っては、近代の広畑地区工業開発時に改修された夢前川の流れに飲まれ、現地に行っても跡形もない。
 かつての面影は、移転した亀山本徳寺にいくらか残されているという。

himejiezu011.jpg


 以上、ほんのラフスケッチであるが、現時点で「英賀合戦」について調べ、描いたあれこれを覚書としておきたい。
posted by 九郎 at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年12月21日

再び父方、姫路のこと1

 ここまで、戦国末期、石山合戦の過程で攻防のあった英賀御坊本徳寺と姫路周辺情報について、現時点での覚書をまとめてきた。

 英賀合戦幻想1〜5

 姫路城を中心とした江戸期の都市計画、海岸線の新田干拓により、今に続く姫路の基盤は築かれた。
 維新後の近代化で「軍都」として発展、第二次大戦で一旦焼け野原になるも、戦後復興を果たした過程についても、以前まとめた。

 戦後姫路小史1〜5

 姫路には私の父方祖父母宅があった。
 ここまでまとめてきた内容ともリンクし、私の幼い頃の原風景の一つでもあるので、こちらも覚書にしておきたい。

 父方祖父は二十世紀初頭、島根の山村に生まれた。
 寺の生まれというわけではなかったが、子供の頃から真宗僧侶になりたかったらしく、若い頃に広島で得度。
 その後姫路に出てきて亀山本徳寺の「役僧」になったと言う。
 初めから姫路を目指していたのかどうか詳しいことはわからないが、出雲は古くから姫路と旧道でつながっており、なんらかの「憧れ」のようなものはあったのかもしれない。
 真宗僧侶として広島から姫路の亀山御坊へという経歴は、ここまで見てきた石山合戦の舞台とも不思議と重なってくる。
 昭和初期当時の軍都姫路は鉄道路線が幾本も乗り入れ、工業化、都市化の勢いは凄まじく、また文化教育への熱も盛んで、若い近代日本の縮図のような勢いがあったことだろう。

ezu001.jpg
(クリックすると画像拡大)

 私の古い記憶にある姫路は、その後戦災と高度成長期を経た70年代頃のイメージだ。

himejiezu006.jpg
(クリックすると画像拡大)

 祖父の晩年にあたる当時の播州は、規模の小さなローカル線も含めて鉄道路線が張り巡らされており、その中心に姫路があった。
 戦災を挟みつつも、祖父は近現代日本の上り調子を全て目撃していたことになる。

himejiezu015.jpg
(クリックすると画像拡大)

(続く)
posted by 九郎 at 20:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年12月27日

再び父方、姫路のこと2 亀山御坊

 島根出身で子どもの頃から寺のお坊さんに憧れ、若い頃広島で得度、真宗僧侶となった父方祖父は、その後姫路の亀山御坊で「衆徒」「役僧」の一人になったと言う。
 私も幼時から祖父や父に連れられて何度も参拝した。
 立派な門や本堂の大屋根、除夜の鐘でついた鐘楼などが記憶に残っている。

otry02.jpg

 この亀山御坊本徳寺が、戦国時代に栄華を誇った英賀御堂の移転したものだ。
 位置関係でいうと以下の図のようになる。

himejiezu016.jpg
(クリックで画像拡大)

 元の英賀から東へ水尾川、船場川を越え、姫路の海路の玄関口である飾磨津から少し内陸に入ったところにあるのが亀山の地で、播磨に本願寺の信仰が広まる前は陰陽道と関係が深かったという。
 現在の亀山御坊は西本願寺所属で、東に流れる船場川をさらに姫路城下まで遡ると、東本願寺所属のもう一つの「本徳寺」、船場御坊がある。
 ともに江戸期から播磨一円の門徒の参拝が盛んであった。

 亀山御坊をさらに拡大して絵図にしてみた。

himejiezu022.jpg
(クリックで画像拡大)

 亀山御坊には英賀御堂のものがかなり伝わっており、その面影を伝えている箇所も多いだろう。
 本堂や太鼓楼、周囲の築地等は、おそらくかなり近い姿なのではないだろうか。

 西方を拝む配置になっているので東が正面にあたる。
 門を出て東に往時には説教所や門徒の宿泊所があったというが、今はもう無い。
 そのエリアを挟んで飾磨街道/銀の馬車道が南北に通じている。
 絵図の左が南で飾磨港、右が北で姫路城へ至り、戦前までは人や物の動線の中心軸になっていた。
 近代くらいまではまだ参拝者が多く、御坊の背後を走る山陽電鉄はお彼岸などに増便し、人流を捌いたという。
 門前には露店が立ち並び、娯楽の少ない時代にあっては、まさにテーマパークのような雰囲気だったのだろう。

 戦後は法令や組織の改変もあり、徐々に往時の人出は減じていったようだ。
 私の父方祖父母は「間に合った」世代で、御坊の賑わいを通じて縁が繋がり、所帯を持ったと聞く。

 
(続く)
posted by 九郎 at 21:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年12月28日

再び父方、姫路のこと3 旧街道

 維新後の近代姫路の陸上交通は、東西の軸の山陽道と、南北の「銀の馬車道」が中心軸になっていた。
 とくに「銀の馬車道」は、姫路のはるか北の生野銀山からスタートし、市川の流れと並行してついたり離れたりしながら南下して姫路城下へ、そこから飾磨街道と合流して姫路の海の玄関口である飾磨港へと至る長大な近代道路だった。
 前回記事で紹介したように、沿道には亀山御坊もあった。
 すぐに播但線も並行して運行するようになるが、その名の通りの荷馬車や、行商の人々の行きかう道で、私の父世代が幼少期を過ごした戦後しばらくまで、その風景は続いていたという。

himejiezu023.jpg
(クリックで画像拡大)

 しかし高度成長期を経てモータリゼーションの波が押し寄せると、飾磨街道/銀の馬車道は完全に歴史的役割を終えた。
 昔日の街道風情を伝える町家風の家屋は、城に近づくほど終戦間際の姫路大空襲で焼けてしまっており、残った家屋も徐々に建て替わっていった。
 父方祖父母が生活していた家屋は飾磨街道沿いにあったが、私が子供の頃の70年代にはもう「交通量の少ない二車線舗装道路」になっており、姫路の物流の南北軸の中心は少し西を通る「産業道路」その他に移っていた。

otry03.jpg

otry04.jpg

(続く)
posted by 九郎 at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年12月29日

再び父方、姫路のこと4 説教所

 父方祖父母が生活していたのは御坊から街道沿いに少し離れた所にある、説教所とか道場、教会と呼ばれる古い家屋だった。
 お寺ではなかったが小さいながら鐘もあり、近隣門徒が法事や集会をするための公民館的な役割で、祖父母はその管理をやっていたということだろう。
 今はもう現存せず、写真もあまり残っていないのだが、記憶を頼りに再現してみよう。

himejiezu017.jpg
(クリックで画像拡大)

 街道沿いの門から入って通路を経ると多人数が集まれる「おみど」があり、その正面の「内陣」にはそれなりに立派な祭壇があった。

himejiezu019.jpg

himejiezu020.jpg

 内陣を抜けると庫裏にあたる居住スペースがあった。
 元々の部屋に加え、父兄弟の成長とともに建て増された部分があった。
 逆方向の居住スペース側からも見てみよう。
 間取りなどはけっこう再現できているはずだが、なにせ子供の頃の記憶なので屋根の構造などは不確かだ。

himejiezu018.jpg
(クリックで画像拡大)

 今考えると、客席・舞台・楽屋を備えた小劇場のような構造だ。
 私たち兄弟やいとこ達孫世代は、盆暮れなどに祖父母宅に集まった折にはよくおみどで遊んだりした。
 朝夕の勤行も物珍しく、けっこう楽しんでいた。

 このブログ最初期の記事にも、その様子は記述している。

 記憶の底

 上掲記事の日付は2006年1月。
 十八年、一巡り半で、大きく周回しながら最初のテーマに戻ってきた(笑)
 ブログ開設当初よりもかなり技量は上がり、認識も広まったが、手持ちの写真等で描けるのは、とりあえずここまで。

(続く)
posted by 九郎 at 11:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年12月30日

再び父方、姫路のこと5 「近代」の終わり

 戦後の高度成長期以降、姫路でも維新後の「近代」の名残は徐々に姿を消していった。
 姫路の戦後復興はアクの強い土建屋市長の個性によるところが大きい。
 私の幼児期の記憶で印象に残っている姫路の風景も、戦後の都市計画のものだ。

●名古山霊園
himejiezu004.jpg
(クリックで画像拡大)

手柄山
himejiezu005.jpg
(クリックで画像拡大)

モノレール
himejiezu007.jpg

himejiezu008.jpg

himejiezu009.jpg

 盆暮れに集まった私たち兄弟やいとこがよく遊びに行った近所の公園も、いかにも70年代的な凝ったコンクリート遊具があって、団塊ジュニアの多数の子供たちでいつもにぎわっていた。

himejiezu021.jpg
(クリックで画像拡大)

 二十世紀初頭に生まれ、80年代には亡くなっていた父方祖父は、まさに「近代とともに生きた」ということになる。
 前回記事で紹介の説教所も近世〜近代の在り方で、戦後の世の中の変化、宗門内の変化とともに、祖父の代で役割を終えたということだろう。
 そして時代の流れはとどまらず、私たち孫世代の見てきた高度経済成長以降の姫路の風景も徐々に姿を消し、上書きされつつある。



 以上、今年夏ごろから断続的に、現時点で描ける父方姫路を覚書にしてきた。

英賀合戦幻想1〜5
戦後姫路小史1〜5
再び父方、姫路のこと1〜5

 その過程で中世末期の「石山合戦」についても資料を渉猟し、認識を深めることができた。
 また時機を見て、石山合戦以前の播州についてもまとめてみたいと思う。
posted by 九郎 at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年12月31日

下村湖人『次郎物語』

 いつ以来か思い出せないくらい久しぶりに下村湖人『次郎物語』を再読した。
 むかし読みふけった本のことが思い出され、気になりがちな五十代である。
 数年前からなんとなく主人公・次郎を思い返すことが多くなっていた。
 そもそもは母が昔愛読していて、私が中学に入るか入らないかのタイミングで勧められたと記憶している。
 周囲と今一つ距離を感じる思春期の少年少女には、必要な物語がある。
 自分と主人公を重ね合わせてともに成長するタイプの読書は大切で、私にとっては本作がそれだった。
 中高生の頃通っていたのが戦前の旧制高校に倣った私立だったので、作中の学校要素はものすごく身近に感じたものだ。
 今読むと親の立場、教える側の立場としてわかることも多いはずで、迫るファシズムへの戦い方、負け方も含め、後半の軍国主義が迫る青年期の巻をもう一度読みたいと思った。

 再読のため、あらためて本作について調べてみた。

・文庫で何度も刊行されており、最近刊で読みやすいのは岩波文庫版。
・青い鳥文庫上下巻は作者による年少者向けの抄本で、書店で確認してみたところ、個人的にはかえって読みにくいと感じた。
・昔読んだポプラ社文庫版は、実家にももう無いだろう。
・著作権は既にフリーになっているので、読むだけなら青空文庫やkindle無料本もあり。

次郎物語 一 (岩波文庫) - 下村 湖人
次郎物語 一 (岩波文庫) - 下村 湖人

次郎物語 01 第一部 - 下村 湖人
次郎物語 01 第一部 - 下村 湖人

 結局kindle無料本で第一部から読み始めた。
 なにしろ80年以上前に書きだされた作品なので、「説教臭いかな?」「文章硬いかな?」と身構えていたが、そういうことは全く無かった。
 意外に平易な語り口で、とくに第三部〜第四部の旧制中学編は、今の目で見てもかなりエンタメ要素を感じた。
 多くの個性的な中学生たちの活躍が「ガクエンもの」の雰囲気を作っており、とくに根拠はないが、「平井和正あたりもこの作品を読み込んでいたのではないか?」と直感した。

 作品の大まかな流れをメモしておこう。

【第一部】
 幼年編。母の死まで。
 一般に『次郎物語』と言えばここがイメージされることが多いだろう。

【第二部】
 少年編序章。
 尋常小学校〜旧制中学入学まで。

【第三〜四部】
 旧制中学編。
 朝倉先生と白鳥会。

【第五部】
 青年編序章。
 友愛塾と切迫する時局。
 恭一と道江。

 二カ月ほどかけてじっくり通読し、充実した時間を過ごした。
 内容は大方忘れていたが、少年時代に読んで救われ、強い影響を受けていたことをあらためて確認した。
 幼少時から周りの反応を読みすぎ、身を守るために「小細工」に長けていく次郎の姿が刺さる。
 私もまた、「心の葛藤を持て余しつつ、創作や教養を好む小柄な剣道少年」だった。
 そう言えば一年前に描いたマンガにも、無意識のうちにか『次郎物語』ぽさがあらわれている。

 マンガ『抜け忍サバイバー』
nss010.jpg

 中学生当時はわがことのように次郎に感情移入するばかりで、背景の「大人の事情」はよくわかっていなかった。
 今回の再読ではその領域が興味深く、たぶん今までで一番よく味わえている。

 時代背景は、維新後一世代を挟んだ二、三世代目と言ったところだろうか。
 次郎の父俊亮は士族の一人息子で、当初は小吏を勤めていた。
 育ちの良い鷹揚な人柄だが、酒好きで飲むと気が大きくなる所があり、おだてられて地元の顔役気取りで喧嘩の仲裁や人助けをやっているうちに、先祖からの財産を失ったらしい。
 俊亮の善良さは中学生時代からわかっているつもりだったが、お坊っちゃん育ちの甘さ、ダメさについては今回はじめて理解できた。
 妻お民の余裕のなさや早逝も、責任の一端は俊亮にあるのだろう。
 それでもなお愛すべき人物であることは間違いなく、読んでいて友情めいたものを感じた。
 次郎の母お民については、昔は「厳しそうな人」という程度にしか思わず、療養に入ってからの人柄の変化はよくわかっていなかった。
 数十年たって親の立場になってみると、比較的裕福な実家から家運の傾いた士族の家に入り、出来た嫁であろう、恥ずかしくない子を育てる母であろうとするあまり必死だったのだなと、気の毒に思う。
 本田家の苦は、つまるところ士族の虚栄への執着で、そうした面は次郎の祖母おことが代表している。
 俊亮はそれを一旦清算する役割を担ったのだろう。
 どのみち時代の流れの中で多くの士族は没落したのであって、俊亮の家の畳み方は、ある意味「ましな部類」ではないかとも思った。

 中学生の頃は全く読み取れていなかったが、本作には様々な形で「士族の身の振り方」が描かれている。
 維新で武士としての禄を失った士族は、官吏や警察、そして教育者等の公職に転身する例が多かったのだろう。
 俊亮のように向いてもいない商売に手を出して失敗する者も多かっただろうけれども、母の実家の正木家のように農業で安定する例もあれば、新しい母お芳の大巻家のように武道や教養を大切に伝える家もある。
 作中に登場する教育者の多くはおそらく士族出身で、江戸期の身分制による教育格差は、維新後も数世代では縮まらなかったということなのだろう。
 私も今は一応育てる側、教える側の立場であるが、作中の人格的な影響力のある先生や親族のようには到底なれそうもない。
 せめて子供たちの知的好奇心を刺激し、それに応え、教養に向かう指導はしたいと思った。

 第一部の母の死までがよく読まれ、何度も映像化されている本作だが、今回の再読では第二部以降の旧制中学での次郎の活躍を興味深く読んだ。
 母の死後、ますます祖母との折り合いが悪くなる半面、兄恭一との信頼は深まる。
そして新しい母のお芳をきっかけに、その実家の大巻の面々と信頼関係を築く。
 中学入学を一度失敗した次郎だが、恭一や大巻家、権田原先生ら、知的な人々との交流が助けとなって翌年合格。
 入学直後、最上級五年生の素行の悪いグループに目を付けられるも、四年の兄恭一やその親友大沢、朝倉先生らとの交流で成長していく。
 その中で、自分の家に馴染めなかった原因である祖母を、自分との素養の相似に気付いて一応受け入れるまでになったのには感動した。
 次郎は本人もよくわかっている通り、恨みの念が強く、時に苛烈にそれを行動に移してしまうところがある。
 どんなに矯め直そうとしても折々牙をむく悪魔的素養との葛藤が、物語の核なのだ。

 今回の再読では、兄恭一の存在の大きさに改めて気づいた。
 兄弟の関係性は様々だが、この兄の知的で偉ぶらない性格もあり、あくまで対等な、次郎の一番の理解者になっていく。
 しかし次郎にとっての兄は、尊敬し、友情を感じながらも、「自分が心底欲しいものを、結局全部持っていく」存在として、いつも意図せず立ちはだかってくる。
 道江との関係にその全てが流れ込んでくることになる。

 第五部の友愛塾編で絶筆になったため、戦中戦後の次郎の動向が描かれることはなく、恭一、道江との関係もそのまま凍結されることになった。
 むかし読んだ時、この続きがないと知って、何とも言えないもどかしさを感じたが、今ならある程度の想像はできる。
 次郎のコメント付きの道江の私信を送られた恭一は、色々途中経過はあろうけれども、最後は次郎の思いについて道江に告げ、選択を道江自身に投げることになるだろう。
 この兄にはそうした論理性と感情の薄さ、意図せぬ残酷さがある。
 しかし、恭一にとっては弟と道江を思いやってのこの行動を、次郎は決して許しはしないだろう。
 そこから先は、想像の範囲を超える。

 この年になると、多くの愛すべき長期作品が絶筆になるのに立ち会ってきて、作品には必ずしも筋立て上の「完結」を求めなくなった。
 私にとっての次郎は、時代と恋情の前に立ち尽くし、静かに思い悩む青年のままが良い。
 それは懐かしのポプラ社文庫版、四〜五部の表紙絵のイメージとも重なる。

jiro002.jpg

 世界的にもファシズムの足音がひたひたと迫る気配が感じられる本年、『次郎物語』を再読できたことに物思う年末である。
posted by 九郎 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 青春文学 | 更新情報をチェックする