新年あけましておめでとうございます。
色々あって記事数としては少なめになった2023年、それでも記事になっていない部分で調べ、描いたものも多数に上り、充実した一年ではありました。
少しふりかえっておきましょう。
2023年序盤はそれまでの流れを継いで、私の出身である播州の田園風景スケッチを描いていました。
播州つながりで時代をさかのぼり、古代風土記の世界を描いたり、神話が今につながったような溜池の風景を思い返したりもしました。
播州剖判
溜池ハルマゲドン
そして実はこれはまだこちらのブログで紹介していないのですが、30ページのマンガを完成させていました。
詳しい経緯はまたあらためて紹介するとして、ここ数年のマンガ執筆を一旦集大成できた、読めばお楽しみいただける作品です。
この正月休み、お暇ならリンク先でどうぞ。
コトリのおっさん
エンタメでは大ヒットマンガ『チェンソーマン』にどっぷりハマり、長い長いレビューを書きました。
最強バトルの彼岸へ:マンガ『チェンソーマン』のこと その1
最強バトルの彼岸へ:マンガ『チェンソーマン』のこと その2
最強バトルの彼岸へ:マンガ『チェンソーマン』のこと その3
最強バトルの彼岸へ:マンガ『チェンソーマン』のこと その4
2023年も思い入れのある表現者の幾人かが亡くなりました。
中でも中高生から二十歳前後に読み込んだムツゴロウ、畑正憲さんの訃報に触れ、カテゴリ青春文学を立ち上げ、思い入れのある作品についてレビューを書きました。
このカテゴリでは同じく中高生の頃耽溺していた下村湖人『次郎物語』についても語っています。
そして下半期、上半期からの流れを受けて、原風景たる播州、中でも父方の姫路の歴史について、深堀りを進めました。
英賀合戦幻想1〜5
戦後姫路小史1〜5
再び父方、姫路のこと1〜5
他にも記事としては出していないあれこれが多数あり、大いに認識を深め、描けた一年でありました。
実は私の中では「6年ごとに作品制作の波が来る」というジンクスがあって、2024年はその6年目にあたります。
これからの一年、手を動かしているうちに見えてくるものは何か?
あまり気負わず構えず、色々あっても出来ることを出来るときに出来るだけ、淡々と描いていきたいと思います。
2024年01月01日
2024年01月04日
宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』
宮崎駿監督最新作『君たちはどう生きるか』を、割と公開直後に観た。
公開当初、大方は「観る人を選ぶ作品」という世評の中、私は普通に「宮崎駿の最高傑作」だと感じた。
とくに創作を志すタイプの若い人には観てほしい作品だった。
事前情報が無く、公開後もしばらくはネタバレ無しが推奨されていたけれども、確かに白紙状態が望ましく、エンタメのテンプレや、なんなら監督名とか会社名も邪魔になるかもしれない。
この作品のマイナス評価というのは、多くの場合、監督名や会社名に対して期待するものとの落差から生じているのではないかと感じた。
マルチバースやパラレルワールドの世界観が一般化した2020年代の今だからこそ制作できたともとれるが、どちらかというと昔ばなしや神話、異世界譚をアニメ化していた50年前、それこそ宮崎駿の活動初期のアニメに先祖返りしているともとれる。
以下、感じたところをメモしておきたい。
https://amzn.to/4dsEKfh
●アニメ『君たちはどう生きるか』
この作品、初見で私は「十四歳の魔境」を描いた物語ではないかとみた。
主人公・眞人(まひと)の年齢は、作中では明示されていないはずだが、順当に受け止めればその心象は思春期に入った直後と感じられた。
時代設定は第二次世界大戦中なので、当時の学制でいえば、尋常小学校高学年から旧制中学1〜2年あたりの年齢であろう。
声変わりし、日々変化していく自分の心と体を持て余す年代ということは間違いない。
作品冒頭、入院中の母が火災で亡くなっており、そこから一年後、父親とともに新しい母夏子の実家に引っ越し、転校した時点から物語は始まる。
眞人の心の問題は早すぎる母の死に端を発しているが、父や新しい母との関係が、それを拗らせている。
若く美しいまま炎にまかれた母ヒサコの死を、眞人がまだ受け入れられない状態で再婚した父。
しかも相手は亡くなった母の実妹である。
父・勝一は若くして軍需産業で成功した有能な実業家らしく、快活で裏表は無さそうだが、身内の微妙な心情を理解できそうなタイプではない。
亡妻の妹との再婚というのも、もしかしたら勝一なりに息子に配慮した選択なのかもしれないが、実際は眞人にも、そして懐妊している夏子の心情にも、裏目に出てしまっている。
思春期の入り口に立った少年にとって、亡くなった母と同じ顔をした母の美しい妹が、父の配偶者として目の前に立つという状況は、「ごく普通に自然に過ごす」には難易度が高く、手に余ってしまっている。
新しい母に罪がないのは分かっており、申し訳ないと思いつつも、心に壁を作ってしまう。
亡き姉への責任感もあり、なんとか眞人とうまくやっていきたい夏子も、頑なな息子の態度になす術がない。
勝一はそうした新しい母子の間の微妙な空気は読めないらしく、忙しく事業に取り組んでいる。
決して家庭を放棄した仕事人間というわけではなく、眞人が学校でトラブルに巻き込まれた際には問題解決に奔走している。
力の及ぶ範囲では極めて有能だが、目の前の妻と息子の心情は全く読み取れないタイプなのだ。
眞人も父親には一定の敬意は持ちつつ、自分の精神面への理解は一切期待していないようだ。
自然豊な夏子の実家で、互いに悪意はないままに、眞人と夏子の心情は行き場を失って閉塞していく。
行き場を失った少年の逃亡先になれる場として、屋敷の「裏山」が視界に入ってくる。
眞人は自室の窓から目撃した奇妙な「鳥」に導かれるように、自作の武器を手に、じわりと「裏山」へ分け入っていく。
裏山にそびえる封鎖された無人の塔。
身内の伝説的な人物「大叔父」にまつわる不思議な逸話。
気の病にとらわれ、裏山へ入って「神隠し」に巻き込まれる夏子。
実母・ヒサコも過去の少女時代に同様の神隠しにあったことがあるという。
じわりじわりと家系の秘密が明かされていく。
眞人は継母を救うための旅に出て、物語はここからめくるめくファンタジー展開に入っていく。
ロジカルな設定や筋書きを追うことが意味を持つのはここまでで、異世界譚に入って以降は、畳みかけるように展開されるイメージの洪水に、ひたすら没入していくことになる。
異世界転生譚として鑑賞することもできるし、孤独な少年が裏山で観た幻想、心の中の旅路ともとることができる。
眞人の傍らには常に眞人を異世界に誘い込んだ奇妙なサギ男、青サギがいる。
そして助力者として現世で縁のあった老女の若き日の姿もある。
神隠しになった新しい母夏子の行方を追う過程で、実母ヒサコとも出会うことになる。
同年齢の少女の姿で現れた母は、この異世界では炎の化身ヒミであった。
火は母を決して傷つけず、むしろ火は母を守護し、使役される力で、眞人に助力してくれる。
ともに冒険する過程で、眞人の「火災で焼かれた母」の悲惨なイメージは昇華されていく。
異世界からはたまに現世が垣間見えるのだが、そこでは父勝一が懸命に自分を助けようと、(全く的外れではあるが)奮闘している姿がある。
その奮闘は、残念ながら眞人の異世界での戦いにはなんら貢献していないのだが、「父は自分を決して見捨てず、懸命に救おうとしている」という信頼感は、眞人に与えたようだ。
父親といえども所詮他人、自分のことを本当には理解してくれないけれども、役割を果たそうとする姿を認めることはできる。
そんな「親離れ」の形があってもよいと思わせる。
異世界探訪の果てに、眞人は家系の因縁の出発点である大叔父と対峙する。
大叔父は現世に出ることを拒否した眞人であり、眞人は現世に戻ってこられた大叔父だ。
終末に向かう他ないどうしようもなく混濁した現世で、少年は自分も汚濁にまみれながら生きることを選択する。
新しい母を取り返す任務を果たした眞人は現世への関門をくぐり、炎の化身ヒミも、最後は炎で焼かれることを知りながら、眞人を生むため過去の時制の現世に。
悲嘆で崩されたバランスは、その悲嘆をリセットするのではなく、新たな意味を上書きすることで回復され、物語は閉じていく。
現世ですでに起こってしまったことはもう変えられないが、現世とは違う価値観、異界の物語を通すことで、受け入れられる可能性が開かれる。
劇場の画面からイメージの洪水を浴びながら、遠く過ぎ去った自分の思春期を様々に振り返る、濃密な映画鑑賞になった。
魔境に足を踏み入れた十四歳は、武器を作って裏山に入り、さまよい、結界を張って机の下で眠るものだ。
はるか昔の自分とも重なるイメージの断片の数々に、あの頃のことを懐かしくも痛く思い出した。
いつの時代も一部の少年少女には、逃げ込める「裏山」が必要だ。
しかし今の子には武器を作るための使い込まれた肥後守は無いし、身近に裏山的な空間もない。
文字通りの「神隠し」になれる時代ではないが、この世に疲れ傷ついたなら、一人隠れて傷を癒せる物語を探せばいい。
そのためのツールや、膨大なフィクションなら、存分に用意されている現代である。
公開当初、大方は「観る人を選ぶ作品」という世評の中、私は普通に「宮崎駿の最高傑作」だと感じた。
とくに創作を志すタイプの若い人には観てほしい作品だった。
事前情報が無く、公開後もしばらくはネタバレ無しが推奨されていたけれども、確かに白紙状態が望ましく、エンタメのテンプレや、なんなら監督名とか会社名も邪魔になるかもしれない。
この作品のマイナス評価というのは、多くの場合、監督名や会社名に対して期待するものとの落差から生じているのではないかと感じた。
マルチバースやパラレルワールドの世界観が一般化した2020年代の今だからこそ制作できたともとれるが、どちらかというと昔ばなしや神話、異世界譚をアニメ化していた50年前、それこそ宮崎駿の活動初期のアニメに先祖返りしているともとれる。
以下、感じたところをメモしておきたい。
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●アニメ『君たちはどう生きるか』
この作品、初見で私は「十四歳の魔境」を描いた物語ではないかとみた。
主人公・眞人(まひと)の年齢は、作中では明示されていないはずだが、順当に受け止めればその心象は思春期に入った直後と感じられた。
時代設定は第二次世界大戦中なので、当時の学制でいえば、尋常小学校高学年から旧制中学1〜2年あたりの年齢であろう。
声変わりし、日々変化していく自分の心と体を持て余す年代ということは間違いない。
作品冒頭、入院中の母が火災で亡くなっており、そこから一年後、父親とともに新しい母夏子の実家に引っ越し、転校した時点から物語は始まる。
眞人の心の問題は早すぎる母の死に端を発しているが、父や新しい母との関係が、それを拗らせている。
若く美しいまま炎にまかれた母ヒサコの死を、眞人がまだ受け入れられない状態で再婚した父。
しかも相手は亡くなった母の実妹である。
父・勝一は若くして軍需産業で成功した有能な実業家らしく、快活で裏表は無さそうだが、身内の微妙な心情を理解できそうなタイプではない。
亡妻の妹との再婚というのも、もしかしたら勝一なりに息子に配慮した選択なのかもしれないが、実際は眞人にも、そして懐妊している夏子の心情にも、裏目に出てしまっている。
思春期の入り口に立った少年にとって、亡くなった母と同じ顔をした母の美しい妹が、父の配偶者として目の前に立つという状況は、「ごく普通に自然に過ごす」には難易度が高く、手に余ってしまっている。
新しい母に罪がないのは分かっており、申し訳ないと思いつつも、心に壁を作ってしまう。
亡き姉への責任感もあり、なんとか眞人とうまくやっていきたい夏子も、頑なな息子の態度になす術がない。
勝一はそうした新しい母子の間の微妙な空気は読めないらしく、忙しく事業に取り組んでいる。
決して家庭を放棄した仕事人間というわけではなく、眞人が学校でトラブルに巻き込まれた際には問題解決に奔走している。
力の及ぶ範囲では極めて有能だが、目の前の妻と息子の心情は全く読み取れないタイプなのだ。
眞人も父親には一定の敬意は持ちつつ、自分の精神面への理解は一切期待していないようだ。
自然豊な夏子の実家で、互いに悪意はないままに、眞人と夏子の心情は行き場を失って閉塞していく。
行き場を失った少年の逃亡先になれる場として、屋敷の「裏山」が視界に入ってくる。
眞人は自室の窓から目撃した奇妙な「鳥」に導かれるように、自作の武器を手に、じわりと「裏山」へ分け入っていく。
裏山にそびえる封鎖された無人の塔。
身内の伝説的な人物「大叔父」にまつわる不思議な逸話。
気の病にとらわれ、裏山へ入って「神隠し」に巻き込まれる夏子。
実母・ヒサコも過去の少女時代に同様の神隠しにあったことがあるという。
じわりじわりと家系の秘密が明かされていく。
眞人は継母を救うための旅に出て、物語はここからめくるめくファンタジー展開に入っていく。
ロジカルな設定や筋書きを追うことが意味を持つのはここまでで、異世界譚に入って以降は、畳みかけるように展開されるイメージの洪水に、ひたすら没入していくことになる。
異世界転生譚として鑑賞することもできるし、孤独な少年が裏山で観た幻想、心の中の旅路ともとることができる。
眞人の傍らには常に眞人を異世界に誘い込んだ奇妙なサギ男、青サギがいる。
そして助力者として現世で縁のあった老女の若き日の姿もある。
神隠しになった新しい母夏子の行方を追う過程で、実母ヒサコとも出会うことになる。
同年齢の少女の姿で現れた母は、この異世界では炎の化身ヒミであった。
火は母を決して傷つけず、むしろ火は母を守護し、使役される力で、眞人に助力してくれる。
ともに冒険する過程で、眞人の「火災で焼かれた母」の悲惨なイメージは昇華されていく。
異世界からはたまに現世が垣間見えるのだが、そこでは父勝一が懸命に自分を助けようと、(全く的外れではあるが)奮闘している姿がある。
その奮闘は、残念ながら眞人の異世界での戦いにはなんら貢献していないのだが、「父は自分を決して見捨てず、懸命に救おうとしている」という信頼感は、眞人に与えたようだ。
父親といえども所詮他人、自分のことを本当には理解してくれないけれども、役割を果たそうとする姿を認めることはできる。
そんな「親離れ」の形があってもよいと思わせる。
異世界探訪の果てに、眞人は家系の因縁の出発点である大叔父と対峙する。
大叔父は現世に出ることを拒否した眞人であり、眞人は現世に戻ってこられた大叔父だ。
終末に向かう他ないどうしようもなく混濁した現世で、少年は自分も汚濁にまみれながら生きることを選択する。
新しい母を取り返す任務を果たした眞人は現世への関門をくぐり、炎の化身ヒミも、最後は炎で焼かれることを知りながら、眞人を生むため過去の時制の現世に。
悲嘆で崩されたバランスは、その悲嘆をリセットするのではなく、新たな意味を上書きすることで回復され、物語は閉じていく。
現世ですでに起こってしまったことはもう変えられないが、現世とは違う価値観、異界の物語を通すことで、受け入れられる可能性が開かれる。
劇場の画面からイメージの洪水を浴びながら、遠く過ぎ去った自分の思春期を様々に振り返る、濃密な映画鑑賞になった。
魔境に足を踏み入れた十四歳は、武器を作って裏山に入り、さまよい、結界を張って机の下で眠るものだ。
はるか昔の自分とも重なるイメージの断片の数々に、あの頃のことを懐かしくも痛く思い出した。
いつの時代も一部の少年少女には、逃げ込める「裏山」が必要だ。
しかし今の子には武器を作るための使い込まれた肥後守は無いし、身近に裏山的な空間もない。
文字通りの「神隠し」になれる時代ではないが、この世に疲れ傷ついたなら、一人隠れて傷を癒せる物語を探せばいい。
そのためのツールや、膨大なフィクションなら、存分に用意されている現代である。
2024年01月09日
2024年01月10日
能登半島は明日の日本
2024年は元日から能登半島の大震災で幕を開けた。
29年前に阪神淡路で被災した者として他人事とは思えない。
幾多の自然災害を経てもなお、いまだに被災者を体育館で雑魚寝させ、一向に省みるところのない国や自治体の体たらくに憤る日々である。
今週あたりから避難所生活の不便に感染症の危険が重なってしまうだろう。
これも自然災害で毎度繰り返される行政の不作為である。
国民負担率が五割を超え、六割に迫ろうとするのに、文化教育、医療福祉は削られるばかりで、災害被災者すらまともに救わない。
そのくせ国や自治体与党と癒着した業界には湯水のごとく税金を注ぎ込み、一般庶民は困窮する。
腐れ切った斜陽国家である。
今回の震災の報道を追いながら、北陸の地理についてあまりに知らないことを痛感し、理解のための絵図を描いていた。
ざっくりした覚書程度のものなので、絵図上のそれぞれの地域の皆さんにとっては変に感じるところも多いと思うが、ひとまずの模式図としてアップしておきたい。
(クリックで画像拡大)
構図としては能登半島を中心に、日本海側から関東、中部、関西までを視界に入れてある。
突貫で作成したので自動車道は入っていないが、JR各線と新幹線は表記してある。
こうしてみると北陸は、関東、中部、関西の三エリアから、いずれも「近くは無いがほぼ等しくアクセスできる」位置にある。
本来であれば、公的な支援やボランティアが、広く見込める地域であることは確認しておく。
石川県は歴史的には加賀と能登が統合されたもので、今回の主な被災は能登の範囲。
能登半島と接する石川県の加賀や富山県までは交通の寸断は起きておらず、今のところ観光も通常通り行える状態だ。
震災後の一月二日に報じられた渋滞は、主に例年通りのUターンラッシュと、地震の報を聞きつけた親族が急遽駆け付けたためであった。
その後目立った渋滞は起きておらず、「迷惑なボランティアの殺到による混乱」なども一切起こっていない。
むしろ被災地は切実に人手を欲している。
阪神淡路大震災の被災者で、3.11の原発震災の顛末を追ってきた身としては、国や自治体のアナウンスをそのまま無邪気に鵜呑みにはできないのである。
北陸は戦国時代から念仏信仰の篤いい地域だ。
とくに加賀は「百姓の持ちたる国」として、一向一揆勢が百年近く自治したお国柄で、今回の震災でも「お東さん」は、いち早く動いていると聞く。
能登半島を含む北陸は、原発地域だ。
福井県若狭湾は国内最大の密集地であるし、石川県の志賀、新潟の柏崎刈羽も抱えている。
巨大地震でかなり損傷を受けたと思しき志賀原発に関する報道は、かなり制限されていると感じる。
深刻な臨界事故を二十年以上隠ぺいしてきた「前科持ち」の原発である。
五月雨式で訂正され、刻々と深刻さを増す情報が、不気味極まりない。
能登半島の首元で敷地内に断層が走っており、もともと「何か事故があったら半島の住民はその原発に向かって逃げなければならない」という、きわめて悪質な立地であった。
長期停止中であったことは不幸中の幸いという他なく、稼働中であれば3.11以上のカタストロフになりえただろう。
まして、珠洲原発計画が反対運動で葬られていなかったら、いったいどうなってしまっていたことか。
被災者の皆さんの困窮は災害列島に住む私たち自身の明日の姿、原発という時限爆弾を抱えて逃げ場のない能登半島は日本の縮図である。
注意深く情報を追いたいと思う。
29年前に阪神淡路で被災した者として他人事とは思えない。
幾多の自然災害を経てもなお、いまだに被災者を体育館で雑魚寝させ、一向に省みるところのない国や自治体の体たらくに憤る日々である。
今週あたりから避難所生活の不便に感染症の危険が重なってしまうだろう。
これも自然災害で毎度繰り返される行政の不作為である。
国民負担率が五割を超え、六割に迫ろうとするのに、文化教育、医療福祉は削られるばかりで、災害被災者すらまともに救わない。
そのくせ国や自治体与党と癒着した業界には湯水のごとく税金を注ぎ込み、一般庶民は困窮する。
腐れ切った斜陽国家である。
今回の震災の報道を追いながら、北陸の地理についてあまりに知らないことを痛感し、理解のための絵図を描いていた。
ざっくりした覚書程度のものなので、絵図上のそれぞれの地域の皆さんにとっては変に感じるところも多いと思うが、ひとまずの模式図としてアップしておきたい。
(クリックで画像拡大)
構図としては能登半島を中心に、日本海側から関東、中部、関西までを視界に入れてある。
突貫で作成したので自動車道は入っていないが、JR各線と新幹線は表記してある。
こうしてみると北陸は、関東、中部、関西の三エリアから、いずれも「近くは無いがほぼ等しくアクセスできる」位置にある。
本来であれば、公的な支援やボランティアが、広く見込める地域であることは確認しておく。
石川県は歴史的には加賀と能登が統合されたもので、今回の主な被災は能登の範囲。
能登半島と接する石川県の加賀や富山県までは交通の寸断は起きておらず、今のところ観光も通常通り行える状態だ。
震災後の一月二日に報じられた渋滞は、主に例年通りのUターンラッシュと、地震の報を聞きつけた親族が急遽駆け付けたためであった。
その後目立った渋滞は起きておらず、「迷惑なボランティアの殺到による混乱」なども一切起こっていない。
むしろ被災地は切実に人手を欲している。
阪神淡路大震災の被災者で、3.11の原発震災の顛末を追ってきた身としては、国や自治体のアナウンスをそのまま無邪気に鵜呑みにはできないのである。
北陸は戦国時代から念仏信仰の篤いい地域だ。
とくに加賀は「百姓の持ちたる国」として、一向一揆勢が百年近く自治したお国柄で、今回の震災でも「お東さん」は、いち早く動いていると聞く。
能登半島を含む北陸は、原発地域だ。
福井県若狭湾は国内最大の密集地であるし、石川県の志賀、新潟の柏崎刈羽も抱えている。
巨大地震でかなり損傷を受けたと思しき志賀原発に関する報道は、かなり制限されていると感じる。
深刻な臨界事故を二十年以上隠ぺいしてきた「前科持ち」の原発である。
五月雨式で訂正され、刻々と深刻さを増す情報が、不気味極まりない。
能登半島の首元で敷地内に断層が走っており、もともと「何か事故があったら半島の住民はその原発に向かって逃げなければならない」という、きわめて悪質な立地であった。
長期停止中であったことは不幸中の幸いという他なく、稼働中であれば3.11以上のカタストロフになりえただろう。
まして、珠洲原発計画が反対運動で葬られていなかったら、いったいどうなってしまっていたことか。
被災者の皆さんの困窮は災害列島に住む私たち自身の明日の姿、原発という時限爆弾を抱えて逃げ場のない能登半島は日本の縮図である。
注意深く情報を追いたいと思う。