先月、父が亡くなった。
うちは父方が祖父の代から真宗僧侶で、寺ではなかったが地域の門徒の公民館的な「教会」とか「道場」と呼ばれる寺院風の家屋の管理をする「衆徒」だった。
祖父の死後は父が得度し、法務を継いだ。
父の代にはその教会もなくなり、同じ地域の寺院の衆徒として、公務員と兼業で法務をやっていた。
このあたりの事情については、何度か記事にしてきた。
私の得度についてはさほど強くは勧められず、結局継がなかったのだが、仏教に対する興味はそれなりに持っていて、たとえばこのようなブログを続けている。
父はまた、若い頃から反権力で、社会的弱者側に立つ人でもあった。
そうした反骨精神とともに、継げるものは継いでいきたい。
家の宗派のことは、慌てることはなく、なんなら一生かけてゆっくり考えればいい。
別に考えなくてもいいが、家の宗派について考えることは、自分について考えることにつながると思っている。
せっかちで合理を好む父の遺志により、葬儀には旧知の所属寺院住職を呼び、参列は近親中心の簡素なものになった。
父方祖父母の時のように多人数を集めて三部経その他を全部やる葬儀も、私は実は嫌いではない。
普段会わない縁者と会い、普段読まないお経の節回しを体験できる良い機会だったと思う。
ただ、少子高齢化のこの御時世、もうそれをやるには人手と負担が過大に成りすぎた面は否めない。
うちは父方母方一同、形式ばらない庶民的な雰囲気で、内心の哀しみはともかく、葬儀や法事でもことさら湿っぽくせず、たまの親族の集まりとして「歓談」するのが常だった。
陽性で社交的だった父もずっとそのようにふるまっており、今回もみんな変わらずそうした。
生前の父の意向で、葬儀以降の法事のお勤めは、基本私がやることになった。
法事を家族でやるのは、昨今とくに珍しくはないらしい。
僧侶ではないので本格的なことはできないが、「こいつにやらせておけば、興味を持って調べ、できることはやるだろう。この際勉強せよ」という意図のはずで、実際そうしている。
父は当ブログの読者でもあった。
あらためて調べたことなど、ぼちぼち覚書にしていきたいと思う。
その後も身内の訃報が続き、日々『白骨の御文章』を口ずさむ春である。
【白骨章】
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、 まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず一生過すぎやすし。 いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。 われや先、人や先、今日ともしらず明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。
されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。 すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。 さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて、夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。 あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。
2024年03月29日
2024年03月30日
出立の春2
うちは浄土真宗の「西」で、日常のお勤めでは『正信偈』とそれに続く念仏和讃、領解文、お経では『阿弥陀経』を唱えることが多かった。
一番よく読む『正信偈』は、仏説のお経ではなく、歴史の授業でも習う親鸞の主著『教行信証』中の漢詩で、信心のエッセンスがまとめられている。
読み方としては「草譜」「行譜」の二種があり、日常的にはシンプルな「草譜」、法事などでやや丁寧に唱える場合は後半がメロディアスな「行譜」を唱える。
続く念仏和讃は念仏の繰り返しと親鸞作の和讃の組み合わせで、こちらも独特のメロディがある。
唱え方には微妙な地域差や個人差があり、うちの唱え方もCD音源等とは少し違う。
録音再生技術の発達した今ですらけっこう「地域差、個人差」があるのだから、昔はもっとバラエティが豊かだった可能性はある。
うちの読み方は私限りになるかもしれないが、唱えられるうちは唱える。
もう一つよく唱えているのが、蓮如の作と伝えられる『領解文(りょうげもん)』だ。
以下に引用してみる。
「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけそうらえとたのみまうしてそうろう。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定とぞんじ、このうえの称名は、ご恩報謝とぞんじ、よろこびもうしそうろう。この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、ご開山聖人ご出世のご恩、次第相承の善知識のあさからざるご勧化のご恩と、ありがたくぞんじそうろう。このうえはさだめおかせらるる御おきて、一期をかぎり、まもりもうすべくそうろう。」
今回調べてみると、領解文の読み方にもかなり幅があるようだ。
シンプルなお経のように一本調子で読んでいる音源もあるし、朗読や独白のように読んでいるケースもある。
うちでは文体が共通している御文章に近い感じで読まれていた。
2023年には西本願寺から『新しい領解文』というものが発表され、議論になった。
残念ながら父の意見を聞ける状態ではないまま亡くなり、また僧侶でない私がどうこう言える性質のものでも無いので、うちでは従来のまま唱えている。
仏説のお経の中では、日常勤行でよく読むのが『阿弥陀経』だ。
短めなので、熱心な門徒の皆さんには『正信偈』とともに暗唱している人も多い。
私は導師に唱和してとりあえず読める程度だ。
せっかちな性格だった父は読むのがかなり速く、ついていくのが精一杯だったことなど、今は懐かしい。
「こんな速く読むのは父ぐらいだろう」と思っていたら、大阪の北御堂に参拝した時、若いお坊さんがもっと速く読んでいて驚愕したことがある。
お経と言えば「聞いてもわけのわからないもの」の代名詞みたいになっているが、『阿弥陀経』に関して言えば、唱えていると少々内容がわかった気になれる。
漢字の字面のイメージを追っていると、釈尊が祇園精舎で舎利弗を代表とする綺羅星の如き弟子たちに、阿弥陀の浄土の絢爛たる様を詳細に語って聞かせているのが、おおよそは伝わってくるのだ。
僧侶が読むとリズム感があり、その感覚は補強される。
釈尊が語りかける舎利弗は「智慧第一」のシャーリプトラで、十大弟子の中でも天才肌の一番弟子と目され、他のお経でも聞き手としてよく登場する。
ただ、このお経は釈尊が舎利弗に一方的に語って聞かせる形で、問答形式ではない。
内容的にもただただ阿弥陀浄土のイメージの洪水を浴びせる感じで、せっかくの天才肌が聞き手でも、口をはさむ余地はない。
わざわざ「自力」に極めて優れた弟子に、それが全く通用しない説法をぶつけていることには、釈尊の何らかの意図があるのかもしれない。
お経の終盤で釈尊は「シャーリプトラよ、どう思うか?」と問いかけているが、弟子の返答はない。
一番よく読む『正信偈』は、仏説のお経ではなく、歴史の授業でも習う親鸞の主著『教行信証』中の漢詩で、信心のエッセンスがまとめられている。
読み方としては「草譜」「行譜」の二種があり、日常的にはシンプルな「草譜」、法事などでやや丁寧に唱える場合は後半がメロディアスな「行譜」を唱える。
続く念仏和讃は念仏の繰り返しと親鸞作の和讃の組み合わせで、こちらも独特のメロディがある。
唱え方には微妙な地域差や個人差があり、うちの唱え方もCD音源等とは少し違う。
録音再生技術の発達した今ですらけっこう「地域差、個人差」があるのだから、昔はもっとバラエティが豊かだった可能性はある。
うちの読み方は私限りになるかもしれないが、唱えられるうちは唱える。
もう一つよく唱えているのが、蓮如の作と伝えられる『領解文(りょうげもん)』だ。
以下に引用してみる。
「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけそうらえとたのみまうしてそうろう。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定とぞんじ、このうえの称名は、ご恩報謝とぞんじ、よろこびもうしそうろう。この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、ご開山聖人ご出世のご恩、次第相承の善知識のあさからざるご勧化のご恩と、ありがたくぞんじそうろう。このうえはさだめおかせらるる御おきて、一期をかぎり、まもりもうすべくそうろう。」
今回調べてみると、領解文の読み方にもかなり幅があるようだ。
シンプルなお経のように一本調子で読んでいる音源もあるし、朗読や独白のように読んでいるケースもある。
うちでは文体が共通している御文章に近い感じで読まれていた。
2023年には西本願寺から『新しい領解文』というものが発表され、議論になった。
残念ながら父の意見を聞ける状態ではないまま亡くなり、また僧侶でない私がどうこう言える性質のものでも無いので、うちでは従来のまま唱えている。
仏説のお経の中では、日常勤行でよく読むのが『阿弥陀経』だ。
短めなので、熱心な門徒の皆さんには『正信偈』とともに暗唱している人も多い。
私は導師に唱和してとりあえず読める程度だ。
せっかちな性格だった父は読むのがかなり速く、ついていくのが精一杯だったことなど、今は懐かしい。
「こんな速く読むのは父ぐらいだろう」と思っていたら、大阪の北御堂に参拝した時、若いお坊さんがもっと速く読んでいて驚愕したことがある。
お経と言えば「聞いてもわけのわからないもの」の代名詞みたいになっているが、『阿弥陀経』に関して言えば、唱えていると少々内容がわかった気になれる。
漢字の字面のイメージを追っていると、釈尊が祇園精舎で舎利弗を代表とする綺羅星の如き弟子たちに、阿弥陀の浄土の絢爛たる様を詳細に語って聞かせているのが、おおよそは伝わってくるのだ。
僧侶が読むとリズム感があり、その感覚は補強される。
釈尊が語りかける舎利弗は「智慧第一」のシャーリプトラで、十大弟子の中でも天才肌の一番弟子と目され、他のお経でも聞き手としてよく登場する。
ただ、このお経は釈尊が舎利弗に一方的に語って聞かせる形で、問答形式ではない。
内容的にもただただ阿弥陀浄土のイメージの洪水を浴びせる感じで、せっかくの天才肌が聞き手でも、口をはさむ余地はない。
わざわざ「自力」に極めて優れた弟子に、それが全く通用しない説法をぶつけていることには、釈尊の何らかの意図があるのかもしれない。
お経の終盤で釈尊は「シャーリプトラよ、どう思うか?」と問いかけているが、弟子の返答はない。
2024年03月31日
出立の春3
亡くなるまでの半年、振り返ってみると父自身は「準備」を進めているような気配もあった。
見舞いに行くと、私がなんとか読める『正信偈』『領解文』『阿弥陀経』以外にも、「日常勤行聖典」(下掲画像右)の中からいくつか読んでおくよう指示があり、『白骨章』を指示された時は、さすがに私でもその意図に気づいた。
その他に指示された『讃仏偈』『重誓偈』は、その時は気づかなかったが、浄土三部経のうちの『無量寿経』からの引用だった。
どちらの偈文も、阿弥陀如来に成仏するはるか以前の法蔵菩薩が、師である世自在王仏に対して詠んだものだ。
法事を私に任せるにあたり、「無量寿経そのものを読むのは荷が重かろう」と、配慮してくれたのかもしれない。
そう言えば父は、一人の勤行ではよく『重誓偈』を唱えていた。
法蔵菩薩が世自在王仏に「四十八誓願」を立てた後、重ねて誓いの心を詠ったものだ。
私は父が唱えるのを隣室などで聞いているだけだったが、なんとなく耳に残っているので、比較的読めそうだ。
あらためて法事について調べる必要から、実家で「仏事勤行聖典」(画像左)を回収した。
普段使いの「日常勤行聖典」だと知りたい内容が足りず、「確かお葬式や法事の時に使う冊子が別にあったな」と、仏間を物色して見つけた。
参考に開いてみると、まず冊子冒頭、法事の始まりに唱えられる『三奉請』が目についた。
『三奉請(さんぶじょう)』
奉請弥陀如来入道場(ぶじょう みだにょらい にゅうどうじょう)散華楽(さんげらく)
奉請釈迦如来入道場(ぶじょう しゃかにょらい にゅうどうじょう)散華楽(さんげらく)
奉請十方如来入道場(ぶじょう じっぽうにょらい にゅうどうじょう)散華楽(さんげらく)
字面を目で追いながら、法事で聞いたことがあるメロディの雰囲気が頭の中で蘇ってきた。
普段はあまり聞けない独特な(ちょっと雅楽ぽい)節で、子供の頃から気になっていたやつだ。
あらためて調べてみると、阿弥陀如来、釈迦如来、その他多くの仏をお迎えする法事のOPらしい。
そういうことだったのか。
今はCDでも動画サイトでも音源は数多く、あらためて調べたり練習するのに助かる。
このように、ぼちぼち内容と意義の理解を進めていきたいと思う。
見舞いに行くと、私がなんとか読める『正信偈』『領解文』『阿弥陀経』以外にも、「日常勤行聖典」(下掲画像右)の中からいくつか読んでおくよう指示があり、『白骨章』を指示された時は、さすがに私でもその意図に気づいた。
その他に指示された『讃仏偈』『重誓偈』は、その時は気づかなかったが、浄土三部経のうちの『無量寿経』からの引用だった。
どちらの偈文も、阿弥陀如来に成仏するはるか以前の法蔵菩薩が、師である世自在王仏に対して詠んだものだ。
法事を私に任せるにあたり、「無量寿経そのものを読むのは荷が重かろう」と、配慮してくれたのかもしれない。
そう言えば父は、一人の勤行ではよく『重誓偈』を唱えていた。
法蔵菩薩が世自在王仏に「四十八誓願」を立てた後、重ねて誓いの心を詠ったものだ。
私は父が唱えるのを隣室などで聞いているだけだったが、なんとなく耳に残っているので、比較的読めそうだ。
あらためて法事について調べる必要から、実家で「仏事勤行聖典」(画像左)を回収した。
普段使いの「日常勤行聖典」だと知りたい内容が足りず、「確かお葬式や法事の時に使う冊子が別にあったな」と、仏間を物色して見つけた。
参考に開いてみると、まず冊子冒頭、法事の始まりに唱えられる『三奉請』が目についた。
『三奉請(さんぶじょう)』
奉請弥陀如来入道場(ぶじょう みだにょらい にゅうどうじょう)散華楽(さんげらく)
奉請釈迦如来入道場(ぶじょう しゃかにょらい にゅうどうじょう)散華楽(さんげらく)
奉請十方如来入道場(ぶじょう じっぽうにょらい にゅうどうじょう)散華楽(さんげらく)
字面を目で追いながら、法事で聞いたことがあるメロディの雰囲気が頭の中で蘇ってきた。
普段はあまり聞けない独特な(ちょっと雅楽ぽい)節で、子供の頃から気になっていたやつだ。
あらためて調べてみると、阿弥陀如来、釈迦如来、その他多くの仏をお迎えする法事のOPらしい。
そういうことだったのか。
今はCDでも動画サイトでも音源は数多く、あらためて調べたり練習するのに助かる。
このように、ぼちぼち内容と意義の理解を進めていきたいと思う。