身辺一段落、ようやく確保していた本を読了できた。
●川奈まり子『僧の怪談』(竹書房怪談文庫)
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ここ数年、カテゴリ:怪異でずっと著書を追っている実話怪談の書き手で、本書は僧侶、僧侶の近親、日常的に僧侶と交流のある人々から聞き取った怪異譚集。
私事になるが、春先に真宗僧侶だった父が旅立ち、その前後に「怪異」というほどではないものの、「少し不思議」なことがいくつかあったタイミングである。
タイムリーという言い方は適切ではないかもしれないが、今後亡父のことを考えていくヒントがもらえそうだと感じ、じっくり読んだ。
それぞれの僧侶やその近親者が、自分の人生経験と宗派の教義を時間をかけてすり合わせ、消化していく過程が見えて興味深い。
家の宗派というのはそういうものなのだなと、わが身も重ねながら読んだ。
僧侶の皆さんが得度した経緯がいくつも紹介されており、巡り合わせの妙というか「仏縁」というものの存在が感じられる。
うちの場合は祖父の代から真宗僧侶で、私の父は祖父の急死と様々な巡り合わせの中、得度することになった。
私自身は結局「得度しない仏縁」だったのだろうけれども、今後二十〜三十年ぐらいの間に、また色々明らかになってくることもあるのだろう。
様々な宗派、様々な時代の怪異譚が紹介されており、地域や宗派の横断に加え、歴史の時間軸の縦断で、怪異に奥行きとリアリティが出ている。
わが宗祖親鸞についてのエピソードも少し採録されている。
明治以降、浄土真宗、親鸞の言説は、知識人好みの合理性や哲学的側面が強調されてきた。
私の父も「迷信を嫌い、合理を好む真宗僧侶公務員」というキャラクターだったので、いかにも中世的な霊験譚がうちで話題に上ることはなく、非常に興味深く読んだ。
そもそも親鸞は若い頃、強い性欲に悩んだ末に観音菩薩の夢告を得るなど、宗教的な体験も豊富に持っている僧なのだ。
大聖歓喜天
先にも「出立の春」の章で書いたが、本書に関連して私の父の死後に起こった「少し不思議」について、こちらでもメモしておこう。
父の死後、私は父の意向で任された法事のお勤めとともに、父の遺した手記の整理をしていた。
自分の経歴や仏教についての考えを書いたもので、いずれ冊子にまとめたいと希望していたという。
晩年は持病もあってPC操作が困難になり、結局完成はしていなかったのだが、それなりの分量のデータがすでにあった。
未完の執筆分に、別に公開していたweb日記から抄出分を加えて補完すれば、一応完結した形になりそうに思えた。
不肖の長男であるが、手製本の同人誌なら作り慣れている。
せめてもの供養にと、四十九日を目途として、身内で読める冊子にしようと思い立った。
父の手記は私が普段使っていないファイル形式だったので、開いて編集可能にするまでに多少手間取った。
その間に他の原稿をまとめていく途中、この十年ほどやったことが無いような初歩的なミスで、データを消してしまったことがあった。
「やれやれ、最初からやり直しか……」
少々うんざりしながら、同時進行でようやく開けた執筆分のデータを読んでみると、消してしまったあたりはもう父がまとめ済みの内容だった。
なんとなく、父に「そこはもうええから」と言われたような気がした。
父は元々文章を書くのは好きだったのだが、徐々にPC操作が困難になる中での執筆のため、校正すべきと思える所は多々あった。
もう本人の意向は確かめられないものの、書いたからにはできるだけ読んでほしいと思っていたはずなので、編集を通したら当然求められる程度の修正は入れることにした。
未完の章をどこまで収録すべきかという点も、かなり迷った。
力を入れて書いているが、内容的に途中までで出すべきではないと判断した章もあった。
その章の削除はプリントアウトする寸前まで迷っていたのだが、念のため父のPCを最後に確認してみると、たまたま開いたファイルに「〇章は削除」という指示が明記してあるものが見つかった。
ここでも「編集方針はそれで合っている」と、父に背中を押されたような気がした。
晩年の父は「法事は長男にまかせるように。見えないだろうけれども自分はその場にいるから」と言い残したという。
父はまた若い頃から組合の闘士で、せっかちで迷信嫌いの合理主義者で、霊現象やオカルトは完全否定していた。
そんな父の中で、僧侶としての阿弥陀の浄土や親鸞の言説への信心がどのように同居していたのか、あらためて聞いたことはなかった。
最後の半年ほどの間に言い遺されたこと、春先の葬儀以後あったことは、今後も色々考えて行きたい。
この度読んだ『僧の怪談』に、そうした思いをあらためて強く持った。