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2024年11月08日

近代公教育についてあらためて考える二冊

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●『科挙』宮崎市定(中公新書)
 読んだ人がみんな「面白い!」と激賞する、中国古来の試験制度「科挙」についての中公新書定番の一冊。
 パスすれば官吏としての地位と生活が保障される反面、あまりに煩瑣で過酷な試験内容が生む悲喜劇を、あまさず詳細に語り尽くしてある。
 まずはその微に入り細を穿つ情報量を楽しむべき本であろう。
 刊行された1963年時点で、冒頭から端的に「当時の社会の強烈な男尊女卑が大前提になっている」と喝破してある点も凄い。

 その上で、能力主義ということ、教育ということについて、様々に考えさせられる一冊でもある。
 国家を運営するためには先例を知悉し、公文書を作成できる知的集団は必須。
 古くは世襲貴族がそれを担ってきたが、それではどうしても縁故が蔓延し、腐敗が蓄積する。
 広く能力ある者に門戸を開き、一部貴族の影響力を削ぐための試験制度が必要になってくる。
 世界史上で最も早期にそれを採用したのが中国で、隋・唐代にはもう制度として軌道に乗せていたという。
 あくまで「優秀な人材を募る」という目的に沿い、試験自体はかなり厳正・公平に行われていた。
 しかし科挙の歴史の大部分は国による「試験」のみで、「教育」自体は民間に丸投げであり、結局は知的・経済的環境に恵まれた貴族や富裕層に極めて有利になっていた。
 学校制度が始まったのは宋代からだが、一旦は衰退して再び科挙だけになり、近代化の時代まで復活しなかったという。
 科挙の歴史はあくまで「知的エリート選抜」の歴史であり、「教育」ではなかったという点はおさえておくべきだろう。
 ただ、現在から見ればはなはだ不十分ではあったが、中国歴代王朝の知的エリートを尊重する姿勢は、副産物として様々な文化も生んだ。
 立身出世のための狭き門だったので、そこからこぼれ落ちる知識階級も膨大に輩出される。
 出世できなかった者の中には詩作で名を成すものもあり、中には叛乱勢力の指導者になって国を再生させようとする者も多く出たというのが非常に面白い。



 わが日本ではどうであったか?
 学問の世界は長らく世襲の知識階級の独占物であり、一般庶民に開かれた公教育は、明治維新以降ようやくスタートした。
 このカテゴリ教養文庫を続けるうちに、近代日本文学の担い手に関心を持った。
 その多くが旧制高校から大学を経た知的エリートであったことを知り、そのタイミングで偶然面白そうな本を古書店で見かけてしまった。

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●『旧制高校物語』秦郁彦(文春新書)
 色々認識を新たにした点あり。
 そもそも旧学制は現在のシンプルな六三三四制とは全く異なっており、旧制高校は現在の高校とは意義も年齢層も違っていた。
 今現在で言えば、年齢層、学習内容ともに「有名大学の教養課程」に一番近いが、全く同じではない。
 尋常小学校6年、旧制中学5年の後、それだけでは大学の講義を受けるには不十分であったので、「大学予備門」という性格があった。
 大学で外国人講師の講義を受けるため、特に外国語習得に重きが置かれた。
 国語や中国古典は相対的に授業時間が少なく、維新以前の貴族や武士階級のようには重視されなかったようだ。
 進んだ西欧文明を幅広く学ぶための予備門であったため、当然ながら社会思想も多く学ばれ、あちこちの高校で思想事件化することもあったという。
 昭和に戦時体制が強化されるとともに、軍部の介入は強化され、思想的な締め付けも厳しくなった。
 武道・スポーツが盛んで「文武両道」のイメージがあるが、そもそも「武道やスポーツをやる若者」が限られる時代背景では、高校生や大学生が中心になるのは当然だった。
 男子のみしか入学できず、それなりの資産が無いと受験までたどりつけなかったので、「近代公教育」としてはまだまだ不十分でもあった。
 校内には例外を除いて女性は入れず、一方で校外では遊郭に入り浸る学生も多々存在し、男尊女卑は根強かった。
 地域社会は一種異様な旧制高校文化を「これからの日本を担う若者たち」ということで受容し、ある意味では甘やかしていた。
 学力で選抜された若者が大学の専門課程に進む前の三年(最大六年)間に、じっくり外国語や人文系の幅広い教養を身に付け、人材を輩出したことは評価されるべきだろう。
 しかし元々社会的に恵まれた層の子弟を、国が更に男尊女卑で優遇したという面は否めず、一応近代教育を装いながらも科挙と同様の問題を抱えたままであった。
 現代においては懐古趣味以外の意味を見出すような制度ではない。



 様々な問題はありながら、能力ある者の選抜にシンプルなペーパーテストを課すという手法は、今のところこれ以上公平な方法が見つかっていない。
 しかしその前段階として「公教育の充実」が無ければ、本当の意味での機会均等、能力主義は担保されない。
 公平公正な人材の育成は豊かな社会の基盤であり、公教育の受益者は個人ではなく社会全体なのだ。

 ところが日本の公教育を削り、再び実質の階層社会に戻そうとする動きは、この三十年、着々と進行中である。
 早急に逆行を止めなければならない。
posted by 九郎 at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 教養文庫 | 更新情報をチェックする

2024年11月10日

アジア史理解のための仏教入門

 日本を含めたアジア史を学ぶ時、避けて通れないのが「仏教」というテーマだ。
 別に専門家でもなんでもないのだが、このような「神仏与太話ブログ」をやっているせいもあり、たまに「仏教は何から読んだらいいですか?」と聞かれる。
 そんな時、素人代表として紹介するのがこの一冊。

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●『仏教 第2版』渡辺照宏(岩波新書)
 岩波新書定番の一つ。
 90年代に仏教を自分なりに勉強し始めた最初期、「ちょっと堅そうだが、岩波新書の青版なら間違いなかろう」と手にとった。
 この一冊に目を通していたおかげで、その後の読書の筋を大きく外さず進めることができた覚えがある。
 新書なので厚すぎず薄すぎず、古代インドの仏教を中心に、時代背景やその後の展開を簡潔な筆致で解説してある。
 読み進めると、日本で習俗や常識として身に着けている仏教への認識が、出発点である古代インドの仏陀の教えと対照され、「そういうことだったのか!」と目を開かされることが何度もあるだろう。
 専門書への橋渡しとしての価値も大きい。
 仏教の入門書とかムック本は毎月のように刊行されていて、それはそれで読みやすいかもしれないが、書くべき人が全力投球で書き上げた入門書はやはり良い。
 読み込むほどに発見がある入門編にして奥の院みたいな一冊なのだ。

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●『仏教入門』松尾剛次(岩波ジュニア新書)
 上掲『仏教 第二版』はとてもいい本だが、今の中高生あたりの世代だと、そもそも自分の中に「習俗や常識としての仏教」が存在しない場合が多いだろう。
 ゼロからの読み始めの場合は、こちらジュニア新書の『仏教入門』を先に読んでおいた方が良いかもしれない。
 インド仏教以降、中国や日本その他の仏教の展開までカバーしてあるので、古代インド中心の『仏教 第二版』を補完する内容でもある。

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(写真は昔のもの。今はカバーが変わっているはず)
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●『理趣経』松長有慶(中公文庫)
 何かを学ぼうとして本を探すということは、信頼できる著者を探すということと重なる。
 なんでもそうだが、「密教」というテーマはとくに著者選びに注意を要する面があるように思う。
 著者を身もふたもなく一言で紹介するなら、「高野山で一番偉いお坊さん」ということになるだろう。(2023年4月没)
 名著中の名著だと思う。
 密教について、曼荼羅について、まず最初に何を読むべきかと問われれば、一秒も迷わずこの本を推す。
 理趣経の解説を軸としながら、日本ではなじみが薄いチベット密教まで視野にいれた思想を、中高生でも読めそうな極めて平易な語り口で紹介してある。
 1992年刊だが、もしこの本が十年早く刊行されていれば、同時代にオカルト的な密教理解で道を誤る若者を大幅に減らせたのではないかとさえ思う。
 こちらも、「書くべき人が書いた入門編にして奥の院」である。
posted by 九郎 at 17:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 教養文庫 | 更新情報をチェックする