blogtitle001.jpg

2025年03月12日

あれから一年、鳥山明再読 その1

 人気作『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』で知られるマンガ家、鳥山明が亡くなって一年が過ぎた。
 70年代生まれの私たちは、その活躍を初期から順にリアルタイムで追ってきた世代にあたる。
 80年代初頭に『Dr.スランプ』のヒットがあり、友達が熱心なファンでコミックを集めていた。
 小学生当時は「この作品はあいつ」みたいな感じで、それぞれ集めている単行本の分担があって、私は『じゃりン子チエ』担当だった。
 その後も中高〜学生時代を通じ、それぞれの年代で身近に「ガチの鳥山ファン」がいて、私が担当ではない状態が続いた。
 中高生の頃に自覚的に絵を描くようになり、人気作品の模写なども熱心にやっていた私だが、手元に現物として絵が無いと、やはり影響は受けにくくなる。
 かくして「かなりの鳥山ファンなのに絵柄の影響は受けない」という、私としては珍しい状態になった。

 鳥山明の絵の凄さを挙げだすと切りがない。
 80年代前半、マンガの作画レベルは目に見えて向上していったが、基本的には「従来の平面的なマンガ絵にリアル描写を盛っていく」という方向だった。
 見た目は「リアルっぽく」なっていたが、写実デッサン的な意味ではさほど立体が描けておらず、空間も出ていない絵が多かった。
 それまでとレベルの違う立体感や、奥行きのある空間が持ち込めていたマンガ家はそんなに多くなくて、鳥山明、大友克洋、宮崎駿あたりが飛び抜けていた。
 三人とも模型趣味があり、立体物を日常的に触っていたことと無関係ではないはずだ。
 私が子供の頃から注目していて、技術的になぜそうなるのかいまだによくわからないのが、「スクリーントーンをほとんど使わないフリーハンドのモノクロ絵が、なぜかカラーに見える」という点だ。
 仮説として、80年代にマンガ家の多くが「マンガ絵に写実描写を取り込む」という方向をとったが、鳥山明は逆に「写実をデフォルメマンガ絵に落とし込む」という方向だったのではないかと思った。
 マンガで立体感や写実表現を取り入れれば取り入れるほど、「モノクロなのにカラーに見える」という感覚は薄れていきがちだ。
 鳥山明は「マンガ絵の範囲内での立体感」を追求して、写実にはあまり踏み込まなかったことに、なんらかの解がありそうだ。
 訃報後に再刊された画集を見ながら、あれこれ考えている。

https://amzn.to/3DypOAe
●週刊少年ジャンプ特別編集
 鳥山明スペシャルイラストレーションズ『鳥山明 the World』

 いま鳥山明のマンガを読み返すなら、初期作や短編が良い。

https://amzn.to/3DNQY62
●『鳥山明〇作劇場』1〜3

 デビュー当初から立体感や奥行きのある空間はもう描けていて、『Dr.スランプ』連載中に絵がどんどんこなれ、見た目はむしろシンプルになっていったのだなと再確認。
 また『鳥山明のHETAPPIマンガ研究所』を再読してみると、小学生向けのマンガ入門の体裁をとりつつ、意外に高度な絵作りの秘密が明かされていて興味深い。

https://amzn.to/3DBAPk8
●『鳥山明のHETAPPIマンガ研究所』

 昔から鳥山作品はジャンル分けが難しいと思っていた。
 代表作のドラゴンボールで「バトルマンガの王様」になってしまったが、初期からの読者はそれが本筋ではないと知っていたはずだ。
 今思い返すと「独自の世界観」をオリジナルデザインで絵解きするタイプの、80年代以降の潮流を先取りした表現者だったのだとわかる。
 悟空の子ども時代にあたる初期の『ドラゴンボール』は鳥山作品本流の異世界冒険絵巻で、成長して天下一武道会で初優勝するところまでで、実質的な一旦完結したのだろう。
 それ以降バトルマンガ化した『ドラゴンボール』が嫌いだったわけではない。
 フリーザ編などは、もう大人になっていたにも関わらず、週刊連載マンガを追ってきた中でもトップクラスに興奮した。
 しかし連載が進むほどに(作品自体は素晴らしく面白いのだが)、鳥山明本人の好みから外れていったのは確かだろう。
 純粋に楽しんで描いていたと思しき緻密なSFタッチの扉絵やオリジナルメカがどんどん減っていったことからも、それはうかがえる。
 後に『SAND LAND』を読んで、「ああ鳥山先生、やっと描きたいものを好きなように描けたんやなあ。良かったなあ」と思った。
 アニメ化の際に作中に登場する1/35戦車がプラモで発売された時も、「先生よろこぶやろなあ」と思った。
 昔からモデラーとしても実力を知られていたのだ。
 昨年の突然の訃報にまず思ったのは、「先生、戦車のプラモ作れたんかな?」だった。

https://amzn.to/3XFPHEP
●マンガ『SAND LAND』

https://amzn.to/3XMPEXU
●『1/35 SAND LAND TANK 104』

toriyama001.jpg

 どの鳥山作品も読むとただただ面白く、そして年月が経って再読してみると大人の深読みにもたえる。
 ある意味、良質の児童文学ではないかと思う。
(続く)
posted by 九郎 at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 児童文学 | 更新情報をチェックする

2025年03月13日

あれから一年、鳥山明再読 その2

(続き)

 鳥山明は基本的には「他愛のない楽しい物語」の作家だったと思うが、その作品の端々に、ゾクッとするような生きた人間の描写が紛れ込んでおり、長年経ってみてからでじわじわ効いてくるものも多い。
 小学生の頃、『Dr.スランプ』の千兵衛プロポーズ回を見た時、ハプニング的な求婚直前のみどり先生のあの表情は、子供心に「あ、変わった!」と思った。
 中高生から二十代にかけて『ドラゴンボール』を読んでいた時はもちろんバトルマンガとして楽しんでいたわけだが、思い返してみると作中の人間関係、人間洞察の描写に唸ることが多々ある。

https://amzn.to/4hrl8tB
●『ドラゴンボール』全42巻

 マンガ『ドラゴンボール』の主人公は言わずと知れた孫悟空で、日本だけでなく世界中で愛されるスーパーヒーローだ。
 誰もがその名をきけば「ああいうやつ」というキャラクター像が浮かぶと思うが、しかし具体的にどんな人格か説明しようとするとけっこう困る。
 他のキャラクターや各エピソードを追うことで、悟空とは何者か、何を求めていたのか、輪郭が浮かび上がってくるかもしれない。

 まずは若くして結婚した悟空の嫁、チチから語り始めてみよう。
 年若い頃はバカだったので、悟飯が生まれて以降のチチを「むかしは可愛かったのに……」などと思っていたが、大人になって読んでみると母親になってからのチチは100パーセント正しい。
 悟空はバトルマンガの主人公としては最高のキャラクターだが、「生活のリアル」という面から見れば社会不適応にしかならない。
 人格というものは美点と欠点が表裏一体で、悟空の浮世離れ、軽みは、非常事態にあって見る者を安心させ、「きっとこいつならなんとかしてくれるのではないか?」という希望につながる。
 実際、作中でも「悟空の不在」は事態の深刻化や救いの無さを招きがちだ。
 チチが悟飯を戦いに巻き込むことに一貫して反対していたのは、「おらの悟空さが負けるなんてありっこねえ!」という、一点の曇りもない信頼の裏返しでもあったろう。
 バトルマンガの中にごく常識的なものの観方を堅持するキャラクターがいるからこそ、物語に深みが出来るのだ。
 亀仙流の体術とか拳法に限って言うと、一番プレーンに継承しているのは、牛魔王の教えを受けたチチではないだろうか。
 何しろ天下一武道会の本戦出場者なので、普通の人間レベルでは十分に「武道の達人」である。
 後のミスターサタンやビーデルと同等くらいには強くても不思議はない。
 誰に対してもきっちり自分の意思を通すチチの強さは亀仙流の修練が基礎になっているはずで、結婚後は悟空のものの考え方にも影響を及ぼしている。
 悟空との間に悟飯を産み、物語の行方を大きく変えたことも大きい。
 さらに世代が進んで、サイヤ人の血を引く子供たちが増えてきたら、子育て相談の保護者の会なんかができるかもしれない。
 チチとブルマが世話役になったりするかもしれない。

 大人になって「育てる方」「教える方」になってみると、あらためて色々わかることが多い。
 ピッコロが幼児の悟飯の修行をつけた時、最初の半年間荒野に放置したのは、人に何かを指導するシーンとして凄くリアルだ。
 まず自力でできるだけやり、自己解決できることはクリアし、自分なりにものが考えられるようになっていないと、何か教えられても身に付かない。
(ただ、いくら強大なパワーを持っているとはいえ、幼児を荒野に放置するのは完全に虐待で、現実ではせめて思春期以降、自分の意志で修練に入った場合のみ許されるのは言うまでもない)

 作品初期の亀仙人・武天老師による亀仙流の教えは、何を学ぶ場合でも全く正しい。

「武道は勝つためにはげむのではない。おのれに負けぬためじゃ」
「これまで習得した基本を生かし、自分で考えて自分で拳法を学べ」
「よく動き、よく学び、よく遊び、よく食べて、よく休む。これが亀仙流の修業じゃ」

 そもそも悟空の育ての親である初代孫悟飯は、亀仙人の一番弟子だった。
 亀仙人に弟子入りする以前から悟空は亀仙流で、無理をしない優しさで育てられたことが、凶暴なサイヤ人の素養を矯めたのだろう。

 悟空の人格が不可解な奥行きや二重性を感じさせるようになったのは、兄ラディッツとの闘いで一度死に、ベジータやナッパと闘うために帰還したあたりからだろう。
 それまでの戦いからシリアス度が一段上がり、戦闘民族サイヤ人として自覚したことがきっかけで、それまでのように天真爛漫に戦いを楽しむことが困難になったことが原因かもしれない。
 フリーザ編でスーパーサイヤ人になって以降は、変身する度に人格が転換する描写が加わる。
 地球で育った陽性の人格を共有しつつ、その奥から冷徹な戦闘モードの人格が顕れて重なってくる印象だ。

 悟空が繰り返した「限界突破」「瀕死からの超回復」、その果てのスーパー化は、サイヤ人の強靭な肉体あってこそであり、亀仙流の教えとは実は相容れない。
 人造人間編で悟飯を指導する責任ある立場になって初めて、悟空は亀仙流の基本に立ち返り、休養と自然体の重要性に気付いている。

 少年マンガにおける「超努力による限界突破」は、『巨人の星』『あしたのジョー』を代表とする梶原一騎原作作品あたりから創出されたメソッドだと思うが、悪影響も生みやすい問題はある。
 現実世界で非科学的な根性論や、パワハラやブラックな働き方を正当化する下地になりかねないのだ。
 売れる要素として作中で活用しつつ、梶原マンガの段階から「それは死につながる道である」ということはしっかり描かれていて、読者はいずれそこに思い至れる構造にはなっている。
 鳥山明『ドラゴンボール』も、読み進めるうちに最終的には「超努力による限界突破」の否定に思い至ることができる流れはあると感じる。

 かめはめ波と並ぶ悟空の得意技・元気玉は、「みんなの力を結集して強大な敵を倒す」という、世界を救うヒーローに相応しい技だが、悟空はあまり使用に乗り気でない気がする。
 無意識の内にセーブがかかるのか、ベジータもフリーザも完全には倒せておらず、決めきれたのは最後の最後、魔人ブウに対してだけだ。
 技の構造として「自分一人の力ではない」点に、心の底では納得できていないのかもしれない。

 実は悟空は「殺し合い」レベルの戦闘自体に乗り気ではなく、一番心置きなく力を発揮するのは「力の試し合い」レベルだ。
 一貫して天下一武道会を愛好し続けたのは、自身のサイヤ人としての素養と、後天的に身に付けた亀仙流の教えがうまく重なる領域だったからだろう。

 長期連載で大河ドラマを紡ぐようになった『ドラゴンボール』主要メンバーは、連載後期には親戚づきあいのようになっていく。
 悟空の息子の悟飯はそのファミリーの中では「初孫」的な位置にあって、初期メンバーから特別に可愛がられて育っている。
(ついでに言うとヤムチャは、親戚の中で「ふだん何やってるかよくわからないが、顔を見ると気楽になれるおじさん」的な位置)
 悟飯は作中で一貫して「特別な子」扱いになっており、素質だけなら誰よりも強いが、本人は全く戦いを望んでいない。
 悟飯と『ジョジョの奇妙な冒険』第三部主人公・承太郎は似たところがある。
 自ら望んで修業を積むほどの戦闘好きではなく、本来は物静かな学究タイプで、置かれた状況と生来の素質からたまたま「最強」になってしまっただけなので、本人は「強さ」にさほどのこだわりはない。
 ピッコロ、悟空、ベジータはそれぞれに「強さ」だけを求めていたが、「素質最強ながら性格適性ゼロ」の悟飯と接してはじめて、戦い以外の価値観を思い知る。
 人造人間編では、精神と時の部屋で悟飯が初めてスーパー化したシーンは描かれていない。
 最初のスーパー化には「強烈な怒り」が必要なはずだが、悟飯は生まれつきの素質だけでクリアしたのかもしれない。
 セル戦で初めて「怒りによる限界突破」を経験し、スーパーサイヤ人を超えたその先に至ったのではないだろうか。
 あのシーンは今見ると完全に集団による児童虐待で、寄ってたかって大人しい子供を小突き回して怒らせようとしている。
 しかも一番酷い「主犯」が父親の悟空であることに戦慄する。
 悟空が息子をちゃんと見れておらず、魔王であったピッコロの方がよほど「親」として悟飯を見ている。
 戦闘民族サイヤ人の邪悪さが一番出ていたシーンではないだろうか。

 年配になってから再読すると、とくに魔人ブウ編のミスターサタンの一連の描写が良いと感じる。
 ミスターサタン的な「ヒーローの戦いに迷い込んだ普通の人」の立ち位置は、当初はクリリンが担当していた。
 しかしクリリンは悟空にくらいついていって成長し、強く立派になってしまった。
 小狡くて嘘つきでどうやっても立派になりようがないミスターサタンが、立派じゃないそのままで世界を救うための重要パートを担ったのが泣かせる。
 作中の描写は無いが、おそらくサタンは苦労人だったのだろう。
 どんな時でもしぶとくチャンスをつかんでのし上がるたくましさと、ふとした瞬間に見せる人の好さの二面性が、それを感じさせる。
 無邪気な魔人ブウに策略とは言え対話を試み、糞みたいなブウの生い立ちに途中から同情してしまうことで心を通わせ、突然現れた邪悪な人間をとっさの正義感でブウの目の前でぶちのめして見せ、「噓からまこと」で世界を救うきっかけを作っている。
 悟空が純粋悪のブウに元気玉を使うクライマックスで、サタンが地球人の意識を「嘘」でまとめ上げるシーンは、「ああ、未熟な地球人には狡く優しい嘘つきこそがヒーローに相応しいのだな」という、サラッと乾いたユーモアがあった。
 スーパーヒーローではない一般人でもここ一番で根性出したらミスターサタンにはなれて、悟空に「やるじゃねえか! おめえはホントに世界の救世主かもな!」と言ってもらえるのが素晴らしい。
 詐欺的に始まった「サタンコール」を、最後は読者全員心の底から唱和する展開に、涙をおさえきれなくなるのだ。

 ドラゴンボールワールドは、本質的にはブルマが創っている。
 そもそもドラゴンボール探しの旅の途中でブルマが小さい悟空を拾ったのが物語の発端だ。
 天下一武道会バトルの流れに入ってから一旦はブルマの活躍の場が無くなったが、サイヤ人編からナメック星に舞台を移したフリーザ編への移行はブルマが主導しているし、地球帰還後はベジータの子のトランクスを出産することで、また運命の流れを切り替えている。
 悟空の心臓病死で行き詰まった本流の世界線から、タイムマシンの開発で新たな世界線を分岐させたのもブルマだ。
 元々の世界線「地獄の未来」の悟飯、トランクスは、立派ではあるけれども、本来の生き方が出来なかったせいかあまり幸せそうには見えない。
 同じ世界線のブルマは幸せではないかもしれないが、本来の「冒険者」のまま年を重ねていて、本編エピローグ、同年代のセレブなブルマよりずっと若く見える。
 人造人間編の最初の方で、ブルマが「戦闘マニアのサイヤ人」を批判する印象的なシーンがある。
 ここでは「常識的な地球人」の役割で発言しているが、ブルマはブルマで実は「退屈な日常に耐えきれない冒険マニア」な一面はあり、それが折々で新しい冒険を生み出しているのだ。

 マンガ版の終章「十年後の世界」は、多くのキャラが本来の個性のまま成長した姿が見られる。
 研究者で優しいパパの悟飯、普通の十代少年の悟天、ちょっと舐めた若造トランクス。
 その他のキャラもそれぞれに平和な日常を過ごしている。
 ドラゴンボールワールドは原作漫画完結後もまだ公式で新作アニメ等のリリースが続いている。
 現役のファンも多いことだろうから、これは個人的な感覚なのだけれども、平和になって戦う理由が無くなった悟飯、悟天、トランクスが降りた時点で、あの世界線は閉じたのだと思う。
 武術に限らず、本人が心底好きでやるのが「クリエイト」であって、そうした創造的精神は血筋だけでは伝わらない。
 悟空、ベジータがその後も強さを追及するのは良いが、悟飯は元々戦いなど好きではなかったのだから、降ろしてあげるのがむしろ遅すぎたくらいだ。
 責任感の強い悟飯が戦いから引退したらしいのは、妻ビーデルと娘パンの存在が大きいのだろう。
 悟飯を「戦いの後継者」の重責から解放し、「家庭の幸せ」を選ぶ背中を押してやった時、悟空はようやく本当の父親になれたのだ。

 物語の果て、悟空は魔人ブウが転生した少年ウーブに出会う。
 二人の組み合わせは、「じっちゃん」初代孫悟飯と、地球に送り込まれたサイヤ人幼児カカロットの関係とシンクロする。
 大好きだった命の恩人のじっちゃんを、意識は無かったとはいえ大猿化することで殺してしまった悟空。
 贖罪の意識もあったことだろう。
 記憶を失った「破壊の申し子」を、亀仙流の老師が再び導く形に帰着することで、原作漫画は円環を完成したのだ。
 エピローグに相応しい、地獄の未来のブルマとトランクスが生んだ、優しい夢の世界線だと思う。

(了)
posted by 九郎 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 児童文学 | 更新情報をチェックする

2025年03月16日

『ベルばら』からハマるフランス革命

 劇場アニメ『ベルサイユのばら』をしばらく前に観た。

kyb025.jpg

 池田理代子により原作マンガが描かれたのが1972〜73年、TVアニメ版の放映が1979〜80年で、どちらも名作として記憶されている。
 2022年、マンガ版連載開始50周年で劇場アニメ制作の報に触れたオールドファンは、期待と不安を感じたことだろう。

・名作すぎる原作マンガと旧TVアニメをどう背負うか?
・半世紀を経たリメイクで、アップデートは必要として、どうアレンジされるのか?
・そもそも二時間の尺で大河ドラマの何をどう描くのか?

 当然このあたりは気になってくる。

 結論から先に言うと「ぜひ観るべし!」だった。
 事前に情報入れずに観たが、少なくとも私の観た回は他の観客の皆さんの反応も上々だった。
 絵的には原作マンガの再現を基調とし、旧TVアニメへのリスペクトをちりばめつつも、2020年代対応、日本発世界対応もクリアし、与えられた課題を高いレベルでクリアした、プロの仕事だと感じた。
 鑑賞後にレビュー漁ってみると、初見の若い人は楽しめ、オールドファンは賛否両論な感じだろうか。
 大河ドラマを二時間に収めるには「超ダイジェスト」にならざるを得ない。
 今回は活躍するキャラを絞ってあるので、錯綜する宮廷ドラマを期待すると裏切られるかもしれないが、後半の「フランス革命」の要素は短い尺の中でしっかりもりこまれている。
 賛否両論の「ミュージカル仕立て」は、私はとても良いと感じた。
 劇中歌がどれも素晴らしく、MV風に高密度でイメージを詰め込むアレンジは、短い尺で必要な要素を語るのにとても上手いやり方だと思う。
 たとえるならば「ベルばらワールド体感ライブ! オスカル編」という作り方だったのだろう。
 二時間でコンパクトにまとめるにはこれしかないというアレンジだ。
 オールドファンの危惧は「ベルばらの凄さはこんなもんじゃないんですよ!」という、ある意味「身内意識」のようなものだと思う。
 しかしネット配信世代の若い人たちは、興味をもったら旧作をすぐ観るもので、年よりがあれこれよけいなおせっかいや差し出口をするまでもない時代なのだ。
 何よりも少子高齢化と分断、圧政の進行する今現在、「民衆蜂起」「革命」がまともに描かれたことの意味は大きい。
 劇場版を観た若い人の中から、原作マンガや旧アニメ、そしてフランス革命そのものへと興味を広げていく層が、必ず出てくることだろう。
 そして今回の劇場アニメ、超ダイジェストであるがゆえ、鑑賞後に原作マンガを読み始めても、ネタバレがさほどネタバレとして機能しないと思う(笑)


 劇場アニメ公開のタイミングでYouTube配信されていた旧TVアニメ版も、久々に何話か観返してみた。
 私の成育歴で言うと、小学生の頃にまずTVアニメ版から入り、学生時代に原作漫画をさかのぼって読んだと記憶している。
 TVアニメは、『エースをねらえ!』とか『あしたのジョー』とかと同じ流れの中の作品として観ていた。
 出ア統という不世出のアニメ監督の個人名を認識したのはずっと後のことである。
 今観ると、原作マンガからかなりアレンジされている意図がわかる気がする。
 70年代末はまだ「少女マンガ」という枠が、今よりずっと強かったので、より広く視聴してもらうための「一般化」だったのだろう。
 面白さはまったく変わらないが、今の時点では原作よりかえって「時代」を感じた。

https://amzn.to/3DN3RgS
●『ベルサイユのばら』全五巻 池田理代子(集英社文庫)
 続いて原作マンガも読み返してみた。
 私のような五十代のおっさんでも絵の古さがあるとわかるものだが、半世紀前の絵で全然気にならず、むしろ「凄い」と感じる。
 執筆された70年代初頭の情勢で言えば、少年漫画に「リアル描写」が持ち込まれ始めた時期にあたりそうだ。
 少女漫画の定番アイテム「女王」や「宮廷」に、リアル描写を持ち込んで成立したのが『ベルばら』で、そのリアルの延長線上に「革命」や「処刑」が描かれたという解釈も可能だろう。
 基本構造は「マリー・アントワネット物語を男装の麗人を通して語る」という体裁で、男と女、王室や貴族と平民いずれの世界とも交錯できるオスカルの濃密なドラマを追うことで、フランス革命に至る時代背景が自然に頭に入ってくる。
 ちなみに学校や塾の先生界隈では「中高生がフランス革命を学ぶならまず『ベルばら』から」という定評があったりする。
 もちろんフィクションなのだが、史実が十分に反映されており、読書を始めるのに必要なモチベーションが強烈に生まれるのだ。


 私も劇場アニメの余韻に浸りつつ、フランス革命について改めて読書したい意欲が湧いてきた。
 手持ちは二冊。
 そろそろ開いてみるタイミングが来たようだ。

kyb026.jpg

https://amzn.to/3DHMez2
●『フランス革命 歴史における劇薬』遅塚忠躬(岩波ジュニア新書)
 錯綜する革命の様相を、著名人や各階級の抱える利害関係や、当時抱いていたであろう情念の面から次々に解いていく筆致が見事。
 マンガ『ベルばら』と続けて読むと、ちょうど内容が相互補完になっている。
 ふと気になって奥付をみると『フランス革命』の刊行は1997年で、マンガ執筆より四半世紀後だ。
 こういう平易な解説本が無い状態で、25歳の池田理代子は『ベルばら』を描いたのかと、あらためて驚愕する。

https://amzn.to/3Fu4xbB
●『フランス革命小史』河野健二(岩波新書)
 確か学生時代に授業のテキストになっていて、一通りは読んだはずなのだが、内容は全く覚えていなかったのでとても面白かった。
 1959年刊。
 戦後民主主義で育った世代が思春期に差し掛かる時期だ。
 知的好奇心に目覚めた若者が、政治や思想に興味を持った時、手にとる本だったのだろう。
 簡潔な記述が小気味よく、「小史」と言いながら理解の範囲が広がりそうだ。
 次々に人名や事項名が登場して内容が濃く、さすがの青版である。
 ロシアや中国の革命への評価にやや時代を感じるけれども、ジュニア新書『フランス革命』の次の一冊としてお勧め。


 劇場アニメ『ベルばら』からスタートして読書を進めると、マリー・アントワネット像が徐々に補正され、相対化されてくる。
 国を逃げ出そうとして失敗し、民心を失い、その後は革命潰しのために手段を択ばず暗躍する様を追うと、処刑に至ったのもやむなしという感じはする。
 マンガ『ベルばら』は、主に王政から革命の発端に至るまでの物語。
 フランス革命全体を通しての主役を一人選ぶなら、やはりロベスピエールになるだろうか。
 結果的には冷徹な独裁者になりながら、それでも貧しい民衆側に立った「ブルジョワ革命のその先」を垣間見せたところに肝がある。
 ナポレオンは革命の幕引き役で、軍人としてもちろん優秀だったのだろうけれども、民衆の「革命疲れ」のタイミングにうまく居合わせ、資本主義と産業革命の段階に着地させたということなのだろう。

 さらに時が流れた19世後半、パリは「芸術の都」として近代美術が花開き、必ずしも専門家ではない層から多くの芸術家と新しい表現が生まれた。
 長い革命を経て、王室が独占していた美術品がルーブル美術館で展示され、自由平等の理念が根付いたことと無関係ではないはずだ。

 革命初期、農民の武装蜂起の多くがデマによる恐怖から始まったという。
 グランド・プール(la Grande Peur「大恐怖」)について知るほどに、今の日本が「暴動→独裁→戦争」コース寸前に思えてくる。
 もしそうだとしても、数十年後の民主主義のため、教養を積まねばならない。
 フランス革命の18世紀末とは違い、今は一般庶民にも読みやすい書物がたくさんあるのだ。
posted by 九郎 at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 教養文庫 | 更新情報をチェックする

2025年03月20日

アニメから俯瞰する近現代史

 以前からアニメ史というか、映像メディアの通史に興味があり、確保していた一冊を開いてみた。

kyb027.jpg

https://amzn.to/4iFuraA
●『日本アニメ史』津堅信之(中公新書)
 アニメはその発祥から映画と一体のものであった。
 いわゆる「パラパラマンガ」の仕組みを基本とし、幻灯機のような映写技術、写真技術など、バラバラに発祥した技術が19世紀末あたりに組み合わされて成立したのが「映画」で、コマ撮りする画像が写真であれば実写、手描きの絵であればアニメーションになる。
 20世紀に入ってから音声技術とも合体し、カラー化した近現代の技術なので、初期段階から各国間が密接に影響しあって進化してきた。
 映像表現は大衆に情報を伝えるには極めて有効だったが、製作には多額の予算と人手が必要であり、20世紀中盤の勃興期が第二次世界大戦と重なったため、各国で国費を使った戦意高揚プロパガンダ映画が製作された。
 完全に文化の戦争利用、大衆動員だったが、潤沢な資金から制作環境構築と人材の育成を促し、手塚治虫をはじめとする戦後の表現者も、そうした作品からアニメを志したという。

 本書は独自の時代区分で主に戦後アニメの変遷を分析している。
 第3章と4章では、50年代から60年代の流れを紹介してあり、「東洋のディズニー」たらんと劇場公開のフルアニメを主とする東映動画と、無料のTV放映向けのリミテッドアニメを主とする虫プロの方向性の対比は二本柱となって、その後の日本アニメにも受け継がれていく。
 第5章:『ルパン三世』、『マジンガーZ』、『宇宙戦艦ヤマト』、『アルプスの少女ハイジ』、『タイムボカン』シリーズ。
 第6章:『機動戦士ガンダム』、『銀河鉄道999』、『未来少年コナン』と『ルパン三世カリオストロの城』、『うる星やつら』、『超時空要塞マクロス』。
 このあたりは私もリアルタイムで視聴してきた70年代半ば〜80年代半ば、第二次アニメブームの最盛期についての紹介。
 第7章:84年『風の谷のナウシカ』〜90年代前半の動静。
 空前のアニメブームのピークが去る中、私も一旦アニメから離れていた。
 第8章:95年『新世紀エヴァンゲリオン』〜00年代前半以降は、いくつかの代表的な作品しか知らなかったので、流れを理解する参考になった。
 そして第9〜10章:00年代半ば〜10年代、WEB配信と個人制作の環境が整い、グローバル化も本格的になり、新たな才能が輩出される。
 終章:2020年代、コロナ禍以降から現在に至る解説。
 1クール13話ごとの製作委員会方式については、認識を新たにした。

 戦後のアニメや映画は大衆エンターテインメント、サブカルチャーとして発達したので、世相が内容に濃厚に反映され、また時代ごとの社会の在り方で制作体制も変遷した。
 アニメの歴史を追うことは、近現代史をなぞることでもある。
 よくまとまって頭の整理に役立つ一冊だった。
posted by 九郎 at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 教養文庫 | 更新情報をチェックする

2025年03月29日

地図と年表を座右に置いて

 半年間ほど、これまであまり読んでこなかった世界史分野を中心に、古典や思想などに関する読書を進めてきた。

 カテゴリ:教養文庫

 色々読む過程で、年表や地図の類は折々開きたくなった。
 めちゃくちゃ使えるのが、以下の高校学習用の定番。

kyb028.jpg
https://amzn.to/4ibkG3n
●『世界史年表・地図』(吉川弘文館)

 歴史関連の教科書や各種書籍に載っているような年表・地図の類が、一冊でだいたい揃う。
 地図はカラーなので、文庫本などに収録されている小さい白黒図より分かりやすい。
 ただ、サイズがB5なので老眼にキツい。
 向学心のあるシニア向けに、せめてA4、できればB4やA3サイズで出してくれないものか。

 もちろん日本史版もあり、こちらも重宝する。

https://amzn.to/442h7c5
●『日本史年表・地図』(吉川弘文館)


 上掲本で載っている地図は事項ごとの略図なので、本格的な地図帳が必要な場合は、歴史テーマ中心に編集されたものが良い。

kyb029.jpg
(表紙デザインは発行年でかなり色々あるようだ)
https://amzn.to/3QTLtWv
●『地図で訪ねる歴史の舞台 世界』(帝国書院)

https://amzn.to/3XAe5I9
●『地図で訪ねる歴史の舞台 日本』(帝国書院)



 大陸規模の広い範囲の地形を把握したい場合、「情報量が多いほど良い」とも言えない。
 ほどよくまとめられ、文字情報が厳選されている方が、大まかな地形が理解しやすい。
 ということで、小学生用の地図帳を重宝する。

kyb030.jpg
https://amzn.to/4cdXXST
●『小学校総復習 社会科地図帳 受験対応』(帝国書院)


 これらの本は、常に傍らに置いて読書を進めている。
posted by 九郎 at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 教養文庫 | 更新情報をチェックする

2025年03月30日

建築から見る世界史

 このカテゴリ教養文庫では、これまであまり読んでこなかった世界史分野や古典などの読書メモを続けている。
 私自身が素人なので、「入口」になれる本を中心に読んでおり、中高生向けのブックガイドにもなっているはずだ。
 とくに高校生は、将来志望する分野についてどんどん読書を進めてほしい。

 分野によっては情報収集だけでなく、他のスキルも必要になる場合がある。
 芸大や美大以外の受験でも、志望する学部・学科によっては美術実技が課されるのだ。
 例としては建築、工業デザイン、映像、教育分野など。
 鉛筆や水彩絵の具などの基本的な画材を使用し、与えられたテーマから自由に構成、モデル無しの想像で描くケースが多い。
 併せて小論文や面接が課される場合もある。
 画塾で内容的にぴったりの講座が開設されるほどの需要はなく、学校で指導できる教員も少ない。
 過去問を開いてみても、受験生は何をどう対策すればいいのか途方に暮れがちだ。
 とくに地方在住だと、まず独習の手がかりがない。

 こうした入試課題は、美大芸大的な写実デッサン力というより、入学後に専門分野を学べるだけの「素養」の有無を問われている。

・志望する分野について自主的に情報収集しているか?
(ネット検索、読書、資料集め、メモ、スケッチ等)
・普段から身の回りのものや風景をよく観察し、それらしくスケッチできるか?
・何か話題をふられた時、自分の興味に引きつけて、絵や言葉でリアクションできるか?

 これらの素養の有無を確認する実技課題であって、過去問の細かな文言は枝葉末節にすぎない。

 どんな分野を志望するのであっても、まずは情報収集、そして読書。
 今回は建築分野について、とっかかりになりそうな本や、自分に合った本の探し方を紹介してみよう。

 工学部建築学科等で、出されたお題に即して想像でスケッチを描くことを求められるのも、問われているのは「素養」だ。
 何のインプットも無しに描けるわけが無いし、スケッチだけでなく面接や小論文が課される場合もある。
 好きな建築家とか好きな建築様式を語れるくらいに情報蒐集し、過去問の文言にこだわらず実物や写真をお手本にしたスケッチの蓄積が必要だ。
 今はネット検索で得られる情報も多いが、やはりしっかり書籍になっている情報や画像を先に学んでおき、ネットは補助にするのがセオリーだ。

kyb019.jpg
https://amzn.to/425yhD1
●『代表作でわかる世界の建築史入門』(世界文化社)
 世界史の流れに沿って、主要な建造物についてカラー図版で紹介。
 社会科の副読本としても良いし、現代文の文明批評への理解も深まるだろう。

https://amzn.to/3QWWUNc
●『図説 建築の歴史 西洋・日本・近代』(学芸出版社)
 上掲書同様、歴史上の代表的な建築物について図と解説で紹介してあるのだが、こちらは日本の建築物も扱ってある。
 また、モノクロのペン画におこしてあるのが素晴らしく良く、自分で描いてみる時の参考になるだろう。


 資料を元にスケッチを始めてみると、色々うまくいかないことが出てくるだろう。
 何枚か描いて苦戦してみてからパースの本を開いてみると、眼から鱗がおちる経験になるはずだ。
 試験で求められているのは厳密な透視図ではなくあくまでラフスケッチなので、あまり難しく考えず、自分の絵柄の中で導入できる技は導入すれば良いだろう。


 幅広い知識とともに、「自分が好きな建築家」もぜひ語れるようになってほしい。
 個人的な推しは、「近代建築の巨匠」フランク・ロイド・ライトだ。
 何よりパッと見で凄さ、面白さが分かりやすいし、完成写真や図面、ライト自身の完成予想図もたくさん出回っていて、入手可能な資料が多い。
 ライトについて深堀りすると、伝統建築と近代建築の違い、西欧建築と日本建築の対比、造園や都市計画まで、幅広いテーマが含まれてくるので、学びに広がりが生まれる。
 ライト自身の著書も文庫本で出ているので手にとりやすい。

kyb021.jpg
https://amzn.to/3DZXFSM
●『自然の家』フランク・ロイド・ライト(ちくま学芸文庫)

 たまに雑誌で特集されることもある。

kyb020.jpg
https://amzn.to/4cf3J6D
●Casa BRUTUS 2023年 11月号 [フランク・ロイド・ライトと日本]

 自分の好きな分野の読書を進めることは、そこから世界を理解することにつながるのだ。
posted by 九郎 at 10:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 教養文庫 | 更新情報をチェックする

2025年03月31日

「哲学」のイメージの劇的変換

 哲学と聞くと、寮住みの旧制高校生たちが、哲学書を読み込んでは夜ごと議論を戦わせるような、鬱勃たるパトスの狂騒のイメージがあった。
 そうした風景を団塊ジュニア世代の私が直接見聞きしているわけではない。
 しかし、北杜夫『どくとるマンボウ青春記』に代表されるような、親世代より上の方々の創作物のおかげで、わりと強く旧制高校の在り様は刷り込まれている。
 また、昔通っていた私立中高一貫校が「旧制高校の校風を今に伝える」というコンセプトだったので、比較的イメージが湧きやすかったということはあるかもしれない。
 中一の頃の担任の英語の先生が、確か大学で西洋哲学を学んだ人だった。
 当時は今よりカリキュラムがずっと緩く牧歌的な時代だったので、たまに一時間ぐらいは授業を雑談で済ませてくれることがあった。
 ある日その先生の授業中に「哲学ってなんですか?」とうまくのせることに成功し、英語の時間が即席哲学入門に変わったことがあった。
 あの雑談は今思い返すと、「我思う故に我あり」のデカルトの紹介だった。
 そんな成育歴があるせいか、その後も長らく「哲学」という言葉には、夕闇迫る教室の窓辺で一人読書しているようなイメージがあった。
 四十年以上経って、それが一変する本に出合うことになろうとは、思いもしなかった。

kyb031.jpg

https://amzn.to/4hSz14j
●『史上最強の哲学入門』飲茶(河出文庫)
 中高生でも手を出せる哲学入門としては、文字通り「最強」ではないだろうか。
 西洋哲学史と『バキ』という絶妙な組み合わせを発想した時点で、もう面白くなることが確定したような本である。
 一応説明しておくと『バキ』シリーズとは週刊少年チャンピオンの連載マンガで、その主人公が範馬刃牙(はんま ばき)という十代の少年だ。
 東京ドーム地下闘技場を中心に世界の強者が集い、「強さとは何か?」について、己の肉体と技術と思想をぶつけ合うバトルが、もう四半世紀ほど描かれ続けている。
 先人の思想を打ち倒し、乗り越え、認識の領域を拡張してきた西洋哲学は、言われてみるとまさに『バキ』の最強トーナメントの世界観そのものだ。
 もちろん元ネタを知っていればより楽しめるが、『バキ』未読でも十分楽しめるのが凄い。
 一読してみて、およそ体育会系とは縁遠いテーマだった「哲学」のイメージは塗り替えられ、西洋哲学の巨人たちのビジュアルが、表紙絵のような絵柄に劇的に変換されていくのを感じた。
 総勢31人、古代から現代までの哲学者を紹介してあるので、一人一人の思想はもちろん概説だ。
 この本の肝は「幾多の哲人が先人の思想をどう乗り越えたか」という、大きな流れを追うことにある。
 エンタメの筆致で「大きな流れ」を一通り知ることで、個別の思想に入るきっかけを得られるのだ。
 今回とくに「第二ラウンド 国家の『真理』」で繰り広げられる「国の統治の在り方」をめぐるバトルは、手に汗握りながら読んだ。
 思想が政治を先導し、中世近世の名残を破壊しつくし、力づくで近代をもぎ取った時代があったのだ。
 新自由主義が世界中で「公共」を破壊しつつあるまさに今現在、読むべき内容であると感じた。

https://amzn.to/4jfJwjj
●『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶(河出文庫)
 東洋哲学を扱ったこちらも無類に面白いが、前著の西洋哲学編とは少し趣が変わっている。
 目次を一見すると13人しか登場せず、前著の31人と比べて「少ない?」と思ってしまったが、読み始めてみると人物以外の歴史的背景にけっこうページを割いてあるので納得。
 また、「最強トーナメント」形式でないことも、すぐに納得した。
 これは元ネタの『バキ』が、「最強トーナメント編」終了後、「最凶死刑囚との路上バトル」に移行したのとシンクロしているのだろう。
 強さがインフレしがちなバトルマンガは。どこかの時点で「パワー比べ」が相対化され、強さの尺度が多様化する。
 東洋哲学を描くには、地下闘技場という限定された条件下の「格闘技」より、時と場所を選ばない「武術」の方がよく似合うのだ。

 中国や日本の哲学の初心者向けの解説書はたくさんあるが、古代インドの哲学をここまでエンタメ化できた本は珍しいのではないだろうか。
 前著西洋哲学編と合わせ、是非『バキ』の絵柄でのコミカライズが見てみたい。
posted by 九郎 at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 教養文庫 | 更新情報をチェックする