去る6月18日、和歌山県田辺市の、とある石像の頭部が切断されていたのが発見されたことが、大きく報道された。
これまでにも日本各地でお地蔵さま等の頭部が切断された事件はあったけれども、今回のニュースがとくに衝撃を与えたのは、件の石像が世界遺産・熊野古道のシンボル的存在として有名な「牛馬童子」だったことだ。
幅広い熊野古道のルートの中でも、整備が進み、アクセスし易いことで人気なのが、紀伊田辺と熊野本宮をつなぐ中辺路(なかへち)ルートで、牛馬童子像はちょうどその真ん中あたりにあった。
ピタッとくっついた牛と馬に、おかっぱ頭の童子がちょこんとまたがる愛らしい石像の写真が、熊野古道の各種ガイドブックにもよく掲載されていたので、目にしたことがある人も多いだろう。
人々に親しまれてきた、姿も愛らしい石像の首を叩き折って持ち去るという行為については、多くを語る意欲が湧かない。
お地蔵さまの首が折られたニュースの時も思うのだが、そのようなことが出来る人間は、その時点で心の中の大切な部分の多くを失っているだろう。因は必ず果を招く。
少し考えてみたいのは、観光整備と信仰の聖地の関係だ。
熊野詣が最盛期を迎えたのは中世のこと。当時の熊野は「辺境の地」で、誰もが簡単に行けるような場所ではなく、それは近現代になってもほとんど変わることはなかった。
熊野が比較的アクセスし易くなったのは、本当に近年になってからだ。中でも中辺路ルートは全行程に車道が並行しているので、誰もがお手軽に「熊野」を体験できる。
そのこと自体は素晴らしいのだが、「アクセスし易い観光名所」は、その場所に思い入れの薄い、聖地へ敬意を払えない多くの人間も呼び込んでしまうことになる。
歴史上の熊野は、地理的に京の都から遠く離れているだけでなく、今日で言う「バリアフリー」から何億光年もかけ離れた場所にあった。
それでも老いも若きも、健康な人々も病に苦しむ人々も、ただ黙々と気の遠くなるような道のりを歩み続けて到達する場所だった。
説教節「小栗判官」で、変わり果てた姿の餓鬼阿弥が、人々の助けを借りて土車を進め、ようやくたどりついた本宮湯の峯で生まれ変わる様こそ、理屈を超えた熊野の世界だ。
そこにはどうしても長い長い「道のり」が必要になってくる。
2008年06月22日
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