2006年01月12日
記憶の底3
例えばイヌ科の動物は、ボスに率いられ群をなして走ることに本能的な喜びを感じるという。イヌゾリはそうした性質を巧みに利用して、人や荷物を運搬している。イヌゾリの犬達は無理に働かされているのではなく、むしろ群としての任務を楽しんでいる。
イヌと同じく、人間にもそういう所があるのかもしれない。同族で声を合わせて唄うことには、なんとも言えない楽しさがあった。
念仏和讃のゆったりと哀調を帯びたメロディは、子供だった私の魂の底に刻まれた。今でもふとした瞬間に、幼い頃から徐々に作り上げられた和讃のイメージが蘇ってくる。暗い闇夜の海を、のたうつ波に揉まれながら小さな舟が漂っているイメージ・・・
このイメージがどこから出てきたのか、記憶は定かでは無い。親鸞は表現として「海」の喩えをよく使っているのでそこから来たのかもしれないし、「補陀洛渡海船」のことをどこかで聞きかじったせいかもしれない。あるいは単純に、メロディが「波」っぽかったというだけかもしれない。
私が浄土真宗の勤行に親しみを感じるのには、「子供の頃から唱えてきたから」という以上の理由はないだろう。それが「御題目」であれ「君が代」であれ、「インターナショナル」であったとしても、同じように幼い頃耳にしていれば親しみを感じただろう。
自分の記憶の底に根ざした懐かしいメロディを大切にしつつも、割と機械的な刷り込みで感情が生まれてくる人間の習性の部分も忘れずにいたい。無所属で自分なりに色々な神仏のことを調べてみて、そう思う。
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posted by 九郎 at 00:42| 原風景
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