プラモの思い出をいくつか記事にしている内に、今の興味の対象である神仏像についても少し思うところがあったのでメモしておく。
ものをつくる、絵を描くと言う行為にも様々な種類がある。
実在のものを「再現」しようとする場合。
存在しないものを「表現」しようとする場合。
何か元になるもの無しに作品自体で新しく創造しようとする場合。
そしてそうした作品を「修復」しようとする場合など。
例えば「神像・仏像」というものを考えるとき、お釈迦様は一応実在の人物とされているが、約2500年前に実在したお釈迦様の容姿は、おそらく現存するどの釈迦如来像ともあまり似ていないだろう。
釈迦如来像は「悟りを開き、輪廻の輪から解放された人物」という、ある意味でファンタジーの設定を、いったん「まこと」であると信じ、容姿を「まことらしく」思索した上で表現したものだ。
その他様々な仏菩薩の尊像は、この世に物質的に実在したことはない神仏を、「あるとすればこのような姿であろう」と仮定したり、あるいは仏道修行の途上に感得した姿を形に定着させたものだ。
だから多くの仏像は、作られた当初はこの世のものならぬ鮮やかな原色で彩られていることが多い。有名な興福寺の阿修羅像も、元は華麗な赤の体色であったことがわかっている。
いったん表現された神仏像は、それ自体が神仏の宿る聖なるモノ、または神仏そのものとして受け止められることになる。信仰の対象となった神仏像は、極力「現状維持」の努力が払われる。
大きな破損は原状復帰が行われるが、それ以外の経年変化、色の古び・退色は、変化したその状態が尊重される。
修復と言うなら色も元の鮮やかな状態に戻すべきではないかとも思うのだが、例えば興福寺の阿修羅像クラスの古仏になると、破損の修復以外の「塗りなおし」などは誰も望まない。修復ポイントにわざわざ「古びた色」を塗って周囲に馴染ませるという、ある意味で虚構を仏像に施さなければならないのは、考えてみれば不思議なことだ。
もう一歩踏み込むと「修復」と言う行為は、決して「完全に元の状態に戻すこと」を意味しない。
もちろん一般参拝者が見て「元通りだ」と感じられなければならないのは当然なのだが、実際の作業は違う。
後の世の修復家が見て、どこからどこまでが元の作品で、どこからどこまでが後世の修復なのかはっきり分かる修復で、しかも見た目は「元通り」であるということを両立させなければならないのだ。
芸術作品の「修復」について関心のある人は、下記の二冊をお勧めしておく。
●「仏像は語る」西村公朝(新潮文庫)
●「岡本太郎『明日の神話』修復960日間の記録」吉村絵美留(青春出版社)
2009年07月18日
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