日本全国に同工異曲の物語は分布するが、風土記逸文の「蘇民将来」が、現存する最も古い形であると言われている。
その他のバージョンでは蘇民将来の兄弟の名が「巨旦将来(こたんしょうらい)」と明記されていたり、兄・弟の関係が逆転していたりするが、「貧しい蘇民が助かり、裕福な巨旦が滅びる」という構図は変わらない。
武塔神が「牛頭天王」になっていることもあるが、同じくスサノオゆかりの神名ではある。あるいは記紀神話で高天原を追われたスサノオが、流浪の旅を続ける途中のエピソードであったのか。
巨旦の滅びた原因も、武塔神とその子等に直接滅ぼされたものであったり、その際、蘇民の協力が有ったり無かったり、または神が直接手を下さず、天変地異や疫病が原因で滅びたバージョンもある。
この物語の意味するところはなかなか頭では理解しがたい。ごく単純に「マレビトを歓待すれば果報が得られる」という、いかにも昔話的な構造にも見えるが、客を追い払った巨旦の末路はあまりに悲惨で血生臭い。
正体不明の漂泊神が訪れた時、責任ある立場の者は、これを安易に受け入れるべきであろうか? 巨旦の態度は多くの一族の命を預かる頭目として、道徳的に非難されるべきものであろうか? それはむしろ当然の態度ではないか…
神話はそもそも「カムガタリ」であって、本来分析すべきものではない。ただイメージを受け取って楽しむ以外は、ある意味不純になる。
しかし頭でっかちな現代人としては、不純を承知であえて合理的解釈もしてみたくなる。これはもしかして「病原体と免疫」を表現した物語なのではないか?
潔癖に病神を退けた者は、その時は病気にならなくても、時間が経ちより強力になった病原体には一気に滅ぼされてしまう。一方、病原体を最初の段階で受け入れて、だましだまし体を通過させた者は、その病原体に対する免疫を得て、蔓延から逃れることが出来る。
例えば沖縄には「美ら瘡(ちゅらかさ)」という言葉がある。天然痘を意味する言葉なのだが、恐ろしい病を美しい名前で呼んで丁重に迎え入れ、穏やかに送り出すという伝統があるそうだ。この「蘇民将来」の物語も、そのような伝統と同種のものと考えられるのではないか。
私なり解釈を一つの与太話として開陳してみたが、神話はやはり様々な想像を広げる素材として、結論は出さずに曖昧にしておくのが良い。ガチガチに固めずに置けば、年月を経て様々な尾鰭がつき、話が大きくなり、思わぬ花を咲かせることもある。
次に「蘇民将来」物語の最終的な発展形態である「牛頭天王縁起」を紹介してみよう。