●「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆」鈴木真哉(平凡社新書)
●「紀州雑賀衆鈴木一族」鈴木真哉(新人物往来社)
上掲二冊によると、本願寺と織田信長の間で争われた石山合戦で活躍し、本願寺方の軍事的リーダーとして信長をてこずらせた実在の「鈴木孫一」は、次のような人物像であるらしい。
・実名は「鈴木重秀」で、通称として「孫一」を名乗っていた。
・紀州雑賀庄の人物だったので「雑賀孫一」または「雑賀孫市」と呼ばれることもあったが、自分では「鈴木孫一」と記していた。
・紀ノ川北岸の「平井」を本拠としていたため「平井孫一」とされることもあった。
・本業はおそらく海運業で、鉄砲隊を率いて傭兵活動も行っていた。
・自身も鉄砲や槍を得意としていたらしい。
・石山合戦には「傭兵」としてではなく「持ち出し」で参加していた。また、後年には「孫一入道」と宛書されたものも残っており、これらは本願寺の信仰を持っていた傍証にはなる。
・生没年は不詳。信長と同年代か、年上にあたるらしい。
・石山合戦後は信長・秀吉に仕え、雑賀の地を離れることになったらしい。
ここまで箇条書きにしただけでも色々と司馬遼太郎「尻啖え孫市」との相違点が出てきている。とくに最後の項目は司馬版「孫市」を愛する者には「?」が浮かぶところだろう。
その疑問点についてはいずれ詳しく触れる。
今回は「孫一」という名前についてあれこれ考えてみたい。
実在の「鈴木孫一」は、特定の支配者を持たず、強固な一枚岩の組織とも言えない「雑賀衆」において、とくに軍事面で実力を認められた存在だった。雑賀庄内だけでなく、戦国当時は広く武名を馳せた一種の「名物男」であったらしい。
石山合戦における対信長の戦ぶりで「孫一」の名はブランド化し、鈴木一族内では「孫一郎」「孫三郎」等々、それにちなんだ名前を名乗るものが出た。その中には当の「孫一」の縁者(兄弟や息子など)もいたらしい。
孫一率いる雑賀鉄砲衆の中には、ちょっと変わった名前の鉄砲名手が多数いたらしい。司馬版「尻啖え孫市」にも描写があるが、「蛍、小雀、下針(さげはり)、鶴首(つるのくび)、発中(はっちゅう)、但中(ただなか)、無二(むに)」といったメンバーだ。
普通に解釈すれば、蛍や小雀や下げた針、鶴の首などを外さず打ち抜いたり、用意した的を寸分たがわず打ち抜く腕前をもっていることを表現したあだ名ということだろう。
もしかしたら演武でそのような「芸」を戯れにやってのけることからついた「芸名」のようなものだったのかもしれない。
こうした「土俗的」とも「そのまま」ともとれる変わった名前は、家柄のはっきりした武士の名とはとても思えない。当時としては比較的身分制の緩い雑賀庄や本願寺寺内町の中で、いかにも「実力だけでのし上がってきた」感じがして興味深い。
ここで「孫一」の名を振り返ってみると、この名も「そのまま」の意味で解釈できるのではないかと想像してみたくなる。
もしかしたら「孫一」の祖父か曽祖父の代あたりに、鈴木一族の中で何らかの理由から敬意を払われた人物がいたのかもしれない。「その人物」の子孫の中で特に輝いた男に付けられたニックネームが「孫一」だったのではないか?
これはあくまで「空想」である(笑)
(続く)