時は江戸末期、所は備中国占見(うらみ)村。
最古の蘇民将来神話が伝えられる備後国の程近く、民間陰陽師が数多く活躍し、金神信仰が深く根ざしたこの地に、一人の農民が暮らしていた。
農民の名は川手文治郎(かわてぶんじろう)、生真面目で誠実な人柄で家を守り、村の役をこなす模範的な男だった。正規の学問ではなかったが、村の知識人から教えを受け、当時の農民としては相当な合理精神を身につけており、物事の道理を大切にした。また神仏を敬う心も篤く、機会を作っては巡礼の旅に出る一面も合わせ持っていた。当時の地元に根ざした金神信仰にも一方ならぬ敬いの心を持ち、日頃の言動や屋敷の普請にも、神に不敬の無いように常に配慮を怠らなかった。
ところがそれだけ敬神の念が篤かったにも関わらず、文治郎の身辺には不幸が相次いだ。二十代で養父・義弟・長男、三十代で長女・次男、そして飼い牛、四十二歳の厄年には自らが思い病気に罹ってしまった。文治郎の脳裏には避けようもなく「金神七殺(こんじんななさつ)」という言葉が浮ぶ。遊行する金神の方位を犯した者は当人も含めて七人祟り、足りない場合は隣近所にまで祟りが及ぶという不気味な信仰。それは陰陽道の歴史が生んだ負の遺産、最悪の迷信……
文治郎の中の敬神の念と、身につけた合理性が激しく拮抗し、揺れ動く。責任感の強い人柄は抱え込んだ矛盾の棚上げを許さず、内へ内へと突き詰められていく。その果てにある世界を、文治郎は「神の言葉」として聴くことになる。
この大病の際に受けた祈祷で神懸り現象を目にした文次郎は、一応の病気平癒を得た後、独自に金神との対話を進めていくことになる。心を研ぎ澄ませ、自分の内に呼びかけてくる金神の声に耳を傾ける。正体不明の祟り神として恐れられた金神は、意外にも道理の通った慈悲深い言葉を伝えてくる。やがて文治郎は自分に語りかける神の勧めで農事から手を引き、隠居して神の言葉の取次ぎに専念するようになった。金光教開祖、金光大神(こんこうだいじん)としての人生がはじまったのである。
金光大神に語りかける神は、自らを「天地金乃神」であるとし、大地の神である八百八光の金神と、天の日の神・月の神を合わせた天地の親神であると伝えた。天地の親神は愛の神であり、祟りの神では無い。人間の小賢しい知恵でもって神の不在を狙うような姑息さが、心身の不都合を生み出すと説いた。
方位や日柄の合理性無き迷信を否定し、男尊女卑を否定した。祭礼に形を求めず、内面の信仰を勧めた。難しい表現はとらず、地元の百姓言葉で、親しく平易に語った。
金光大神の教えは、当時の迷信にがんじがらめにされた農民達の生活を解放し、無駄を省いて生活の負担を減じ、心の迷妄を解いて、結果として病気平癒の「おかげ」が相次いだ。
祟り神と恐れられた金神が、自らの言葉によって金神信仰の迷妄を糺す。
人間の既成概念に塗り固められ、変質し、行き詰まった神話の生命力は、新たにヨミカエルことによってヨミガエル……
2006年02月25日
神話のヨミカエ1「天地金乃神」
posted by 九郎 at 22:47| 節分
|