
梅の花の季節になった。
梅はまだまだ寒い時期に、他の花にさきがけて咲く。暖かくなるのはまだもう少し先、風に運ばれる香りに気付いて視線を巡らせると、控えめに咲く可憐な花に目が止まる。それぞれの場所で、それぞれの高度で、梅の花はそっと開いては散っていく。
「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世に成りたぞよ。
須弥仙山に腰をかけ、鬼門の金神守るぞよ」
今から百年以上前、一人の老女にかかった神は、このように口を切ったという。
「三千世界」は仏教の言葉で「三千大千世界」、この世を含む様々な宇宙全体のこと。
「須弥仙山」は老女の地元近くの高山、あるいは仏教で言うこの宇宙の中心にそびえる山。
地べたを這いずるように生き抜いてきた誇り高い老女の、この雄大な詩情。
ここで選ばれた花は、桜ではなく梅だった。
暖かくなってから華やかにいっせいに開いていっせいに散る桜ではなく、寒空の中ぽつぽつと開花し、辛抱強く咲き続け、本格的な暖かさの前にそっと散る梅の花。
そんな梅の花が「三千世界一度に開く」という美しい幻想。
カテゴリ;節分で紹介したこの老女、出口なおの筆先は激しい社会批判と「立替え」を強調した終末観の側面を強く持つ。現存する「大本神諭」を一読しても、まずそこに注意を引かれる。
私は、なおのような過酷な人生を送ってきた人が、社会に対して激しく糺すのは当然のことだと思うし、なおのような感受性をもった人が社会の危機的状況を感じるのも当然だと思う。
しかし私を含めて何不自由なく生まれ育った者が、その表現を鵜呑みにして「この世は腐りきっている」と嘆いてみせたり、「ああ早く立替えが起らんかなあワクワク」などと心待ちにしたりするのは、なにかちょっと違う気がする。
「大本神諭」を読み返して、最近心ひかれるのは桜ではなく梅を選んだこの感性の部分だ。
誰一人理解者も無く、狂った老女として打ち捨てられたなおに、艮の金神は優しく語り掛ける。
「天も地も世界中一つに丸め、枡掛けひいた如く、誰一人つつぼには落とさぬぞよ」
「つつぼ」とは、泥まみれで捨てられた稲穂のこと。
なおの描く理想世界のイメージは限りなく慎ましい。世界がその土地ごとの天産自給物を生産し、贅沢をひかえ、お互い思いやりをもって暮らすこと。ただそれだけだ。
何気ない表現だが「誰一人つつぼには落とさぬぞよ」という一節も、実際つつぼに落とされた悲しみを持つ人でなければ理解できないだろう。
「種まきて、苗が立ちたら出てゆくぞよ。
刈りこみになりたら、手柄さして元へもどすぞよ」
「ほのぼのと出て行けば、心淋しく思うなよ。
力になる人が用意してあるぞよ」
筆先の激しい部分よりも、艮の金神のこのような語りかけが心に残る今日この頃。