2006年03月28日
地獄抜苦
六道能化の地蔵菩薩の力、中でも地獄に救いをもたらす力は、インド成立の比較的古いお経から描写されていると言う。地獄の閻魔大王や獄卒に姿を変え、または責め苦に苦しむ亡者に代わって苦しみを引き受けるという設定は、ことのほか人々の心をとらえた。
後の中国ではさらに一歩読み替えて、閻魔大王と地蔵菩薩は同体であるという説がとられはじめる。その流れは日本でもそのまま受け継がれ、地蔵菩薩は地獄担当の仏様、閻魔大王の正体として広く信仰される事になる。
この設定は様々な説話文学を生み、地蔵菩薩と地獄・閻魔大王の関係は、江戸時代にはもはや世の常識と言えるほどに流布していた。
中世、法然によって阿弥陀信仰が革命的に読み替えられ、何の知識も教養もなく、ただ日々の暮らしに追われる人々に阿弥陀仏の救いが解放されたが、それまで一般民衆に救いの手を差し伸べてくれる仏は一人地蔵菩薩だけだった。
人は日々、様々な罪を犯しつつ生きている。この世を生き抜くためには欲の世界にどっぷり浸かって、必死に足掻くより他に術はない。仏の教えに照らして我が身を省みれば、どう考えても地獄行きは必定だ。
地獄には「落とされる」というよりは、様々な執着や欲を手放せずに、その重みで「自分から落ちていく」と言うのが実情かもしれない。
お地蔵様はそんな魂を放置せずに、地獄できっちり相手をしてくれる。閻魔大王となって罪を自覚させ、獄卒となって罪を償わせ、時には優しい姿で苦しみを引き受けてくれる。
「全ての衆生を救わぬ内は仏にならない」
「地獄の全ての衆生が解脱するまでは、自分は成仏しない」
時代とともに読み替えられ、拡大解釈で話は大きくなって行くけれども、お地蔵様のキャラクターは、前世の誓いの基本線からは決して外れない。
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