中世の一向一揆や石山合戦を語る文脈の中で、この三つの言葉はあまり厳密に区別されずに使用される場合が多い。
同義として扱われている場合がほとんどであると言ってよいだろう。
私も長らくそれらの言葉が何を指すかについて意識せずにいたのだが、石山合戦について調べる過程で一度整理しておいた方が良いことに気づいた。
備忘として記事にまとめておく。
【浄土真宗】
鎌倉時代、六字名号「南無阿弥陀仏」の称名念仏を提唱し、日本仏教に「革命」を起こした法然(浄土宗)。その高弟の一人である親鸞を開山としたのが浄土真宗。
【本願寺】
親鸞八世の子孫・蓮如の活躍で飛躍的に勢力を拡大した本願寺は、戦国〜江戸時代を通じて日本で最大の門徒を抱える巨大教団になった。
その規模の大きさから「浄土真宗」といえば「東西本願寺」と認識しがちであるが、本願寺以外の浄土真宗の流れも一定の勢力を持って現存している。
そもそも蓮如が登場するまでの本願寺は弱小勢力で、先行して勢力を広げていた浄土真宗高田派等から見れば「後発団体」に過ぎなかった。
石山合戦の過程においても、浄土真宗全体が一枚岩となって織田軍と戦ったわけではなく、抗戦したのは主に本願寺勢力だった。高田派や三門徒派はむしろ織田方についており、各地域で降伏した本願寺派門徒を転宗させる際の受け皿になったこともあった。
だから石山合戦を「浄土真宗vs織田軍」と認識するのは正確ではなく、「本願寺vs織田軍」とした方がより適切になるだろう。
【一向宗】
今回まとめる三つのキーワード「浄土真宗、本願寺、一向宗」の中で、もっとも実態のつかみづらいのが、この「一向宗」という括りだ。
石山合戦当時までに、浄土真宗に属する派の中で自ら「一向宗」と公称した例は無いはずだ。(時宗の一派にはその例がある)
なぜ浄土真宗本願寺派の門徒が主導したと考えられる一揆勢力が「一向一揆」と呼ばれるにいたったのか、明確な理由は認識していなかったのだが、以下の参考図書に、一応納得できる解説があったので紹介しておこう。
●「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」神田千里(吉川弘文館)
この書籍の中では、「一向宗」と呼ばれる集団が、本願寺本体とは別個に存在したという仮説が提示されている。
この「一向宗」の集団的特徴を様々な実例をひきながら解説しているのだが、私なりにまとめると以下のような点が挙げられている。
・阿弥陀一仏のみを尊び、その他の諸神諸仏を軽んじる。
・「どんな悪事を働いても念仏さえ唱えておれば救われる」と短絡し、自ら悪を為すことを避けない「造悪無碍」という傾向。
・山伏、社人(下級神官)、巫女、念仏僧、琵琶法師、旅人、商人などによって布教され、土俗的な霊能を布教手段としている。
・一揆を起こすことに積極的である。
多少なりとも親鸞の教説を調べたことがあればすぐに気付くはずだが、これらの傾向はすべて、親鸞の在世当時から親鸞自身によって批判されてきた傾向だ。
本願寺を中興した蓮如も、こうした傾向は変わらず批判しており、「一向宗」と「浄土真宗/本願寺」の間には、実は真逆と言ってよいほどの教義の相違が存在するのだ。
つまり一向一揆勢力というものの全体像は、土俗的な信仰と反体制的な傾向を持った膨大な数の民衆が、頭に「本願寺」という教団組織を乗せて結集した一大勢力、という構図になってくる。
このような構図を念頭に置くと、確かに石山合戦や一向一揆についての疑問点の多くに説明がつき易くなってくる。
それではなぜ教義の全く違う集団同士が一致協力することができたのかと言えば、以下の二点がやはり重要になってくるだろう。
まず「一向宗」側から見れば、「本願寺」は開山聖人・親鸞の血脈を引いているという、素朴な血脈信仰があっただろう。
そして「本願寺」側から見れば、特に蓮如以降の布教傾向として、「一向宗」的な土俗的信仰を持った民衆こそが教化の主たる対象であった。
両者が教義的には「ねじれ」を持ちながらも、石山合戦に至るまでの協力関係を築くことができたのはそんな経緯があったからだと考えれば、様々な点で辻褄が合ってくると感じる。