現代に創作された戦国物語の中で、一向一揆や石山合戦を描いたシーンの中で必ずと言ってよいほど登場するのが、「南無阿弥陀仏」と墨書された筵旗を掲げた狂信的な農民集団だ。
史実としての中世一向一揆は江戸時代の「農民一揆」とは全く異なり、専門の武装階級が実際の戦闘を担当していたので、「鋤鍬や竹槍を得物に、筵旗を掲げた農民の集団」が戦場に現れることはほとんどなかったと考えられるので、そのようなイメージは完全に間違ったフィクションだと言える。
もう一つ、よく登場するのが、以下に画像で紹介するような軍旗だ。
進者往生極楽
退者無間地獄
進まば往生極楽、退かば無間地獄
戦って死ねば極楽往生、逃げて生き延びても地獄行き……
石山合戦に臨んだ門徒の熱狂的な信仰が端的に表現されたキャッチコピーなので、物語の中で使用されるととりわけ印象に残る部分ではある。
しかしこの旗印自体は確実な資料によるものではなく、「毛利水軍の軍旗として使用したという伝承のある古い旗」を出典としているに過ぎないが、当時の一般門徒が合戦に臨む心情は、だいたいにおいてこのようなものだったであろうという推定は成り立つ。
しかし、それはあくまで「一般門徒」の心情であって、教団としての「本願寺」が公式に「進者往生極楽、退者無間地獄」というコピーを使用したわけではない。(一向宗と本願寺の違いについては前回の記事参照)
本願寺が石山合戦当時のリーダーである顕如の名において門徒に求めたのは、多くの場合あくまで「開山聖人・親鸞への恩返し」だった。
自分たち門徒は親鸞の教えにより、凡夫であっても極楽往生できることを知った。その親鸞の恩に報いるためには、その親鸞の血を引き、教えを正しく伝えた本願寺の存続のために尽くすことが肝要であるというロジックで、
ここには「本山のために戦って死ねば極楽、逃げれば地獄」というニュアンスは含まれていない。
それもそのはずで、実は親鸞・蓮如の教説の中には門徒が武装蜂起して圧制者に対抗せよという内容は含まれていないのだ。中世身分社会への本質的な批判や、教えが弾圧された場合の「逃散」の勧めはあるが、「武器をとって戦え」という明確な指示は為されていない。
ただ、ここからが非常に微妙な領域に入ってくるのだが、石山合戦の過程において、本願寺教団側が一向宗側の熱狂的な信仰、本願寺の公式教義からは逸脱した部分もあった信仰を、半ば放置することによって「戦争利用」したのではないかと思える局面がいくつか認められる。
顕如は門徒に石山合戦に対する協力を求める際に、「協力しないものは破門にする」という意味の檄を飛ばしている。あくまで「本願寺を破門する」と言っているのであって、「協力しないものは地獄行きである」と恫喝しているわけではないのだが、当時の素朴な「一向宗」の信仰を持つものにとって、本山からの破門はほぼ堕地獄と同義であっただろうことは想像に難くない。そこから生まれたのが、有名な「進者往生極楽、退者無間地獄」というフレーズだったのだろう。
こうした在り方は、公式には教義と矛盾しないよう注意を払いつつ、ある部分では門徒の「誤解」にまかせた、本願寺教団の巧妙な戦略という風にも受け取れる部分だ。
しかし一方、素朴な「一向宗」の心情としては、本願寺教団や宗主・顕如に「そのように振舞って欲しい」という願望も確実にあったことだろう。
戦乱に明け暮れる乱世、名もない民衆にとって、この世に生きることはそのまま地獄に生きることでもあった。地獄のような娑婆世界に生きるためには種々の悪を行う他なく、このままでは後生の安泰もおぼつかない。
そんな希望のない生活の中で、親鸞の教えは間違いなく一筋の光であっただろうし、本願寺寺内町の平等で活気に満ちた情景は「この世の極楽」と感じられたことだろう。
こうした生きる喜びのある生活の場を守りたい。
守るための戦いに身を投じたい。
戦いに倒れた仲間には、死後の安楽を約束して欲しい。
そのような心情を持つことはごく自然なことであろうし、自分たちのリーダーである顕如にはその先頭に立って欲しいと願うことも、また自然な人間感情というものだろう。これは何も中世の民衆に限らず、現代における戦争でも変わらぬ構図が世界中に存在するだろう。
果たして本願寺は門徒の感情を「戦争利用」したのか?
厳格に教義を守り通すことよりも、門徒の感情を汲むことを選ばざるを得なかったのか?
あるいはその両方か?
どうやらそのあたりに、私の中の「石山合戦」の核心部分がありそうに感じる。
2010年07月18日
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