今回はもう少し詳しく検討してみよう。
本願寺の信仰を端的に表現したものに、「領解文(りょうげもん)」という短い文章がある。
本願寺門徒が蓮如の時代から朝夕の勤行に日常的に唱える一文で、今でも暗唱している人が多い。
以下に引用してみよう。
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、
一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、
御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、
このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。
この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、
御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、
次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。
このうへは定めおかせらるる御掟、
一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。
私は本願寺の信仰を正確に解説できる立場にはないのだが、文法的にはさほど難解でもなさそうなので極私的に読んでみる。以下のようなまとめ方で、大きく間違ってはいないはずだ。
「他力の念仏以外の様々な自力の行法をたのむ心をふり捨てて
阿弥陀如来に後生をどうかお助けくださいと
一心におすがりしましょう
それだけで往生の心配はなくなるのだという信心が定まれば
その後の称名念仏は助けていただいた感謝の言葉
喜びの言葉となりましょう
この理をお説きになった親鸞聖人の御恩と
聖人の教えを正しく伝え、広めてくださった方々の御恩を
深い感謝の心で受け止めております
この上は定めおかれた掟を一生涯守ってまいります」
当時としては平易な言葉遣いで、蓮如の受け止めた親鸞の思想が巧みに要約されている。
石山合戦当時の門徒もおそらく日常的にこの「領解文」を唱えており、言葉の意味も大意としては理解していたはずだ。
誰もが罪業を積まなければ生きてゆけない戦国の世、迷信を排し、罪を犯した者も救われるとする教えは、一条の光になったに違いない。
しかし本願寺寺内町に集う膨大な数の一向一揆衆が、すべてこの「領解文」のような信仰の在り方を正しく身につけ、守っていたかというと、問題は別になってくる。
一口に阿弥陀信仰と言っても、当時民衆の間に広まっていた信仰には非常に呪術的な要素を持つものも多かった。
そうした呪術の担い手である民間宗教者や芸能民や、仏教がそれまで救いの対象としてこなかった層、農民よりも一段低く見られながらも経済的な実力を蓄えつつあった商工民、山の民、海の民に、蓮如以降の本願寺は積極的に布教していった。
親鸞の教えは、構造こそシンプルであるけれども、それを本当に実践するためにはかなり高度な思索を要求される面がある。
蓮如はその親鸞の教えをギリギリまで平易に語り、広めようとし、その際に、ともかく「多数の人を集め、広く知らしめる」ことに重点を置いたように見える。
そうした蓮如の方向性が、雑多な信仰、雑多な職種を飲み込んだ「一向宗」を寺内町に集め、組織としての本願寺を神輿として担がせることを可能にしたのではないだろうか。
石山合戦における「浄土真宗、本願寺、一向宗」の三者の関係について、試みに模式図を作成してみよう。
一般的な理解としては下図のようになるだろう。

しかしこれはかなり単純化した理解であり、実際はそう簡単な話ではなかったことは、前回の記事でも解説した。
石山合戦について、まだ私はほんの入り口に立ったばかりなのだが、現時点では下図のような図式が妥当ではないかと考えている。

一向宗と呼ばれた人々と本願寺の関係については、今後も注意深く考えていってみたい。