
六地蔵は、地蔵菩薩の六道能化の力をわかり易く表現したもので、その起源は比較的新しく、日本で成立した概念だ。その姿も諸説あって一定しない。
しかし六体のお地蔵様が並んだ姿は、村々の辻や墓場の入り口で今でもよく見かけるし、何よりも昔話「かさこじぞう」で民衆に広く親しまれている。
地蔵信仰は立派な教義こそ無いけれども、民衆の暮らしの中に溶け込んでいる。人々は地蔵菩薩についてのあれこれを詳しく知っているわけではないけれども、誰もが気軽に触ったり手を合わせたりできる素朴な信仰対象になっている。
最近はニュースで、各地のお地蔵様が盗まれたり、酷い時には頭部を叩き落されたりという報道が流れることもある。「そんなことをするとバチが当るぞ」などと迷信じみた説教をする気は無いが、地元の人々が歴史を重ねて作り上げて来たお地蔵様との関係を、無残に破壊して恥じない心の有り様は、それ自体が地獄と同調しているのではないだろうか。
他者の心情への無理解・想像力の欠如は、当人の周囲にも微妙に波及すると思うのだ。
構えることなく、お地蔵様にそっと手を合わせられるうちは、まだ「大丈夫」だという気がする。
以上、カテゴリ「地蔵」一段落の挨拶に代えて。
ありがとうございます。
九郎様のお考えに賛同させてください。
拙ブログは、やはり娯楽ブログですので、思っている事や感じた事を書けない場合も多いのです。
何か、こう、やるせない事があったり迷いがあると、気分転換に貴ブログを読みふけってしまいます。
感謝申し上げます。
お地蔵さま受難のニュースに暗い気分になる一方で、私の住んでいる地方では今でも8月の地蔵盆が残っていて、近所の人たちが協力しておまつりをし、子供たちが楽しんでいます。
そういう風景を見ると、やはり「まだ大丈夫」だと思いますね。