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2010年08月11日

試作「大坂本願寺絵図」

 まだまだ試作スケッチの段階だが、石山合戦当時の大坂本願寺や、周辺の地理条件を編集した絵図を描いてみた。

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(クリックすると画像が大きくなります)

 以前の記事大坂本願寺の風景を求めてでも書いたとおり、蓮如による創建〜石山合戦当時、直接その風景を見て描かれたと思われる絵図は、どうやら現存していないようだ。
 戦国時代、覇者・信長と真っ向勝負を戦い抜いた大勢力であるにも関わらず、当時の大坂本願寺の様子を知るための史料は非常に少ない。したがって、現代に制作された復元図や復元模型にも、「これが決定版」と呼べるものが中々無い。
 そもそも、大坂本願寺の厳密な所在地すら確定していない現状では、正確な復元図が描けるはずもなく、どれも「想像図」にならざるを得ない。
 それでも絵描きのはしくれとしては、興味のある歴史の舞台の風景はなんとか自分なりに再現してみたいという願望はあるので、ぼちぼち描き始めてみた。
 大坂本願寺やその寺内町については諸説ある中で、私が個人的に最も納得できたのは、以下の資料等で読むことができる仁木宏説だった。


●「難波宮から大坂へ 」(大阪叢書)

 今回はその仁木説を参考に試作してみた。今後も順次検討を加えていきたいと思っている。
 制作意図としては、正確な作図の鳥瞰図ではなく、感覚的に大坂本願寺と周辺の地理条件を理解できるようにしたイメージ図だ。
 本願寺の大寺院は、阿弥陀如来の西方極楽浄土を拝するために、寺院自体は東向きに建設されることが多い。当時の大坂本願寺も、上町台地北端の小高い丘陵から西方を遥拝するイメージで御堂を建てたとする説には説得力がある。寺内町はその御堂を中心に、地形なりに順次増設されて行っただろう。
 この「西を拝する」という要素が、大坂本願寺の基本的な構想であったとするならば、絵図もそれに従って西向きに描いて見るのが良いと判断した。

 織田軍と交戦状態になってからは、援軍の毛利・村上水軍は、真西から船で来訪することになる。本願寺に集う一般の一向宗にとって、日々遥拝する西方からの船団は、まさに西方極楽浄土からの援軍のように感じられたことだろう。
 また、さらに妄想を逞しくするならば、信長はその極楽からの援軍を、希望を込めた門徒達の眺めている前で「鉄甲船」によって殲滅することにより、精神的な揺さぶりを意図していたのではないかとも思えてくる。
 本願寺寺内町の一般門徒が一日の労働の疲れを癒せる一時であるはずの夕方の勤行や、新しい気力を充填する朝の勤行のとき、西方に広がる海を眺めてみると、そこに禍々しい黒色で巨大な「鉄甲船」が停泊しているのを見れば、「浄土から分断されている」という素朴な感想を持っても不思議はないのではないか。

 今回は大坂湾周辺を主に描きこんでみたが、欲を言えば、もっと左右の横幅を広げて、右は琵琶湖畔の安土城から、左は伊勢長島あたりまでを吉田初三郎ばりに空間を捻じ曲げて収録してみたいところだ(笑)
 その目標に向けて、今後もこのカテゴリ石山合戦を通じて妄想力を蓄積していきたい。 
posted by 九郎 at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする
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