昼間はまだまだ暑いが、夜間に熱気が冷まされる時間帯ができてきた。
しかし例年に比べれば「まだお盆過ぎ」くらいの季節感だったりする。
ともかく、夏休みも終わり、9月に入って一週間以上が過ぎてしまった。
毎年この時期になると思いだすことがある。
私が二十代の頃住んでいた四畳半一間、トイレ共同風呂無しアパートのことは、これまでにも何度か書いてきた。狭いながらも駅に直近で、部屋の割には広々としたベランダからは、広く海が見晴らせた。色々不便はあっても25000円の家賃にはお得感があった。
そのアパートは駅近くだけあって、一階部分は三軒横並びの店舗になっていた。
左から順に寿司屋、焼き鳥屋は経営が安定しているのか長く続いていたが、右端の店舗は入れ替わりがけっこうあった。
そこに、ある夏から翌年の夏の終わりまで、一年間ほど「手作りカレーの店」が出店していたことがあった。
私は人並みにカレー好きなので、さっそく階段を下りて店に入ってみた。ウナギの寝床式の、間口が狭く奥行きで床面積を稼ぐ間取りだったので、店の奥までカウンター席が伸びていて、マスターが一人で調理と接客をやっていた。
頭にバンダナを巻き、眼鏡をかけて髭を生やした、30歳以上の何歳にも見える、ちょっと年齢不詳なマスターだった。
カレーはとても美味しかった。
インドカレーではなく日本式の「カレーライス」の範疇にはいると思うが、各種スパイスを使ったカレーには隠し味にマスター特製の「ニンニク醤油」が使われていた。
お店と同じ建物に住んでいたこともあり、すっかりその店のファンになった私は、閉店間際などのすいている時間を見計らって通ううちに、マスターと世間話を楽しむようになった。
話がはずむと、マスターはカウンターの奥から貝柱の刺身や美味しい日本酒をひっぱり出してきてふるまってくれたりした。
私が言うのもなんだが、マスターはすごくいい人だったが、けっこうな変人でもあった。
他の仕事で収益が上がっているらしく、カレー屋は気分でやっているようなところがあり、開店時間も休日も、あまり一定していなかった。
年齢は当時の私の倍ぐらいだったことも、世間話の中から明らかになるのだが、年若かった私と友達のように話につき合ってくれた。
話によると、マスターは自転車が好きで、あちこち走りまわっていたそうだ。
色々な景色の中を走るのが楽しいそうで、ジム等でバイクをこぐのは「全く意味がわからない」と首をひねっていた。
私が「あいつら、自分がジムで使う分の電力は、自分で発電させればいいんですよ」と暴言を吐くと、爆笑して何度もうなずいていた。
お互い「病院嫌い」という共通点もあった。
私が足の爪が割れたのを自分で消毒し、ハンカチを咥えながらペンチで引っこ抜いた話をすると、マスターは「私も奥歯を自分で抜いたことありますよ」と笑っていた。
同席していた女子大生が気味悪がって、「そんなことするぐらいなら病院いけばいいのに!」と悲鳴を上げたが、マスターと私は声を合せるようにこう言った。
「だって、病院行くのって怖いじゃん!」
彼女が異星人を見る目で私たちを眺めていたことは言うまでもない。
他にも夜遅くまで色んな話をしたが、ここに書けない話も多い(笑)
何度か「これから飲みに行かないか」と誘ってもらったが、それは丁重にお断りした。
私の中の基準として、ちゃんとお金を出してカレーを食べに行き、その過程でいくらかのサービスをしていただく分には心から楽しめるのだが、それ以上のことをしてもらうのは「ちょっと違う」と感じるものがあったのだ。
あくまで私は美味しいカレー屋の常連客。
これからも長くお店の常連客でいられるように、そういう一線はきちんとしておきたいと感じていた。
気分で経営していたこともあり、そのお店は結局一年余りで閉店することになった。
最後の日、何人かの常連客が集まって「閉店祝い」みたいな感じになった。
マスターは店の備品を「好きなの持ってって」とみんなに配った。
私は他に何もできないので、マスターの今後の商売がうまく行くように、ガネーシャの絵を贈った。
絵の中のお供え物には、私がそのお店のメニューの中で一番好きだった「オムライスカレー」を描き入れた。
玉ねぎの効いたチャーハンを玉子で包み、ケチャップとカレーをかけた、ボリューム満点の一品だった。
2010年09月10日
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