カテゴリ「児童文学」を新設した。
子供の頃から一応「本好き」で通ってきた。
それほど幅広くはないけれども、一つの作品、一人の作家が気に入ると、その周辺を手当たり次第に読み漁った。
この読書法は今も続いている。
ここ数年、年齢のせいもあると思うが、子供の頃読んだ本を再読する機会が増えている。
詳しい内容などは全く記憶になこっていないのだが、昔読んだ絵本や児童書の表紙を見ると、特に好きだった本や作品名、作家の名前には、好きだったという「感情」だけは確実によみがえってくる。
そうした感情のよみがえってくる本を手に取り、ン十年ぶりに読み返してみると、やっぱり当然のように面白い。感動する。
覚書を作っておきたくなったので、一つのカテゴリにまとめておく。
一番手は新美南吉のことだ。
作家の名前は記憶になくとも、代表作「ごん狐」の作者と書けば、十分だと思う。
人が大人になり、生きていくためにどうしても必要になるケガレ。そうした部分を一概には否定せず、当然あるものとして許容しつつも、今一度ケガレのない視点から見つめなおす、そんな構図の作品が多い。
今回、再読していて気付いたのは、人としての日常に遍在するケガレを、今一度見つめなおす視線の持ち主の造形のことだ。
人を違った視線から見つめなおせるのは、人以外のモノ、または人の中でも立場的に周縁部にある者だ。
新美南吉の作品に登場するそうした視線の持ち主は、時には狐であり、時にはお地蔵さまであり、鉄砲撃ちであり、門付芸人であり、学校のクラスの中でもちょっと外れた立場にある児童として登場する。
おそらく浄土真宗寺院であろうお寺が舞台になっていることも多い。
こうして並べてみると、当ブログで扱ってきたモチーフと、重なっているものがけっこうある。
今読むと、作者の関心を持っていた分野、作品の表面上にははっきりと表れていないが、制作する上で資料を漁ったであろう分野が、非常によく理解できるのだ。
まあ、そうした制作過程に関する興味が先に立って再読し始めたのだが、途中からそんな「不純な」興味はどうでもよくなってきてしまったのだが(笑)
ケガレにまみれた俗人としての私は、最初は創作上の秘密を盗んでやろうと分析的に読んでいた。しかし童話集のページを繰る内に、純粋な子供の視線にたじろいでふと堅気に戻ってしまう盗人(「花のき村と盗人たち」より)のごとく、時には不覚にも涙をにじませながら一冊読み切ってしまったのだった。
新美南吉の作品は、青空文庫でも読むことができる。
青空文庫 新美南吉
紙の本が似合う作家ではあるけれども、ともかく一読したい人は、そこから入ってみるのもいいだろう。
紙の本で読みたい場合は、岩波文庫のものがお勧め。
棟方志功の挿絵もある。
●「新美南吉童話集」新美南吉(岩波文庫)
蛇足ながら最後に一つ書き加えておこう。
制作された時代背景もあるだろうが、いくつかの作品の中で、微妙に軍国主義に配慮したかのように見える箇所がある。
しかしそれは本当に、文字通り「とってつけたような」描写であって、作品の全体的な構図とはほとんど関係ない。
こんなとってつけたような描写さえあれば通ってしまったのなら、逆に当時の検閲に関わる人物は表現と言うものが何にも分かっていなかったのだろうなと、ちょっと笑ってしまった。
しょせん「表現規制」等を持ちだす人種には、表現の何たるかなど、少しも理解できないのだろう。
今も昔も。
2010年09月11日
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