月、海、祝祭、市、芸能など、つらつら物思いにふけるテーマには事欠かなかった。
そして、あの日体感した空気の中心に近い部分に、どんとの面影を見ていた。
ライブでの派手なパフォーマンスと、普段のもの静かな佇まいが、あのお祭りの夜と昼とシンクロしているように感じていた。
祭り自体はその後も年に一回、中秋の名月の時期に開催され、沖縄に移住してソロ活動に入ったどんとも毎年参加していたそうなのだが、私はあれ以後、祭りには行かなかった。
お祭りでない時に、二回ほどその海岸に立ち寄ったことはあったのだが、それだけだった。
もし十数年前のあの夜が、ほどよく楽しいものだったとしたら、私はすっかり気に入って毎年お祭りに駆け付けたことだろう。
しかし、私にとってあのお祭りの印象はあまりに鮮烈だった。
毎年恒例にしてある種の「慣れ」が出てきてしまうのが怖いほどに、特別な思い入れが出来てしまっていた。
また、90年代後半の数年間は、個人的に様々な出来事があって、かなり内向的な精神状態になっていたこともあった。
それまでは劇団の舞台美術等を担当したりして、けっこう人と交わる表現活動などもしていたのだが、あのお祭り以降の一年間で、思うところあって、チームプレイに属する表現は全て休止した。
一人になって、興味のある仕事だけを続けながら、前から気になっていた宗教書をあれこれ読みふけり、熊野の山々を単独で歩きまわり、実験的に小さなサイズの絵を描きためたりしていた。
自分のやりたいことにまだ名前を付けられずにいたが、あのお祭りの夜と昼の空気や「月、海、祝祭、市、芸能」には「何かある」とずっと考え続けていた。
先輩の作ったボ・ガンボスのカセットテープはずっと聴いていた。
90年代の終わりごろには、ボ・ガンボスのCDの類がほとんど入手不可能になっており、当時はまだインターネットも一般化していなかったので、どんとの沖縄でのソロ活動についてはあまり情報を得られないままだった。
擦り切れかけたカセットテープの中に「夢の中」という曲があった。
ボ・ガンボスの中でも名曲と呼ばれる作品なのだが、歌詞に当時の私の心情にぴったりな箇所があって、自分でもよく口ずさんでいた。
明日もどこか祭りを探して
この世の向こうへ連れていっておくれ
夢の中 雲の上 夢の中 雲の上……
ボ・ガンボス時代のどんとの曲には、届かない「あこがれの地」を思ったり、そこに入りこもうと試みたりするテーマの詞が数多くあった。名曲「夢の中」などはその代表だ。
それがある時期から、完全に「彼岸」に入りこんだり、向こうからこちらを眺めていたり、こちら側とあちら側の視点が混在して区別のつかなくなるような不思議な歌詞が出てくるようになる。
そのことが2000年のどんとの死によって、どんとの歌を愛する全ての者に、謎を投げかけることになっていく。
2000年以降、どんとののこした不思議な言葉の数々が、これも不思議な符合で現実化していくことになるのだ。
どんとの死に衝撃を受けた多くのファンが、廃盤になっていたCD再発の署名活動を開始し、その作品の全てが、再びCDショップに並ぶようになった。
バンド、ソロなど様々な活動の中からピックアップされた2枚組「どんとスーパーベスト 一頭象」が発売された。このCDはどんとの死後、ベスト盤が制作される過程で、本人の私物の中から既に完全に選曲された状態のDATが偶然発見され、結局そのDATのままの曲目で発行されたというエピソードがあるという。
この「一頭象」にも収録されている「どんとマンボ」という曲の歌詞に、以下のような一節がある。
そして一年 みんな忘れた頃
ふと気がついた どんとマンがいない
どこへ消えた おれのどんとマンよ
どこにもいない 死んじゃったのかな
歌詞はそれから、「どんとマン」がたくさんのお土産を持って復活する描写に続いて行く……
2001年9月、私は一週間の熊野修行から帰る途中、ふと思い立って、あの海岸に久々に立ち寄ることにした。どんとのことが、気まぐれの一因になったのは間違いない。
見覚えのあるスタッフの人がいたので声をかけてみると、あの月のお祭りは2000年で一旦終結したとのことだった。
その代わり10月にどんと追悼の「どんと院まつり」が、そこで開催されることになったという。
一ヶ月後、もちろん私は駆け付けた。
(続く)