神戸は大坂湾と六甲山に挟まれ、南北に狭く、東西に薄く広がった地域だ。
中心である三宮から大阪に向けて、阪急線、JR線、阪神線の三本の鉄道路線が並行して走っている。
大雑把にいえば、阪急沿線は山手に差し掛かったやや高い地域を走っており、阪神線はかなり海沿いを走っている。
JR線はその中間だ。
南にいくほど地盤は軟弱になり、阪神大淡路震災の場合には、より震源地に近づいていくという悪条件も重なって、阪神沿線の被害は凄まじいものになった。
到着してみると、Kの住むアパートは瓦礫の山と化していた。
それを見た瞬間、私は「ああ、死んだ!」と呻いた。
それほどの惨状だったのだ。
絶望的な気分で名前を叫びながら南に回りこむと、そこには既に何人かの劇団員が集まっていて、その中心に、横たわるKがいた。
「大丈夫、生きてます!」
一人が言った。
その場にいる劇団員も皆被災者だったのだが、夜が明けて周囲の様子うかがってから考えたことは誰しも同じだったようで、「あのアパートは危ない」と、順次ここに駆け付けてきたそうだ。
瓦礫に埋まっていたKは、ついさっき掘り出されたばかりだという。
怪我をしているらしく、問いかけにも言葉での反応は無く、かなり辛そうだった。
私達はとにかく近くの病院に運ぶことにした。
はたして病院が機能しているのかどうか分からなかったが、そうする以外に選択肢は無かった。
Kは体をおこすこと自体が不可能な様子なので、何か戸板のようなものは無いか探してみたが、なかなか適当なものが見つからない。
結局、元は窓の外に設置されていたらしい金属柵を瓦礫の中からひっぱり出してきて、応急のタンカにすることになった。
寒い季節の朝であることに加え、負傷していることで体温が下がっているらしく、Kはガチガチと歯を鳴らしていた。
カーテンや布団など、布をひっぱり出せるだけひっぱり出してKを包み、数人がかりで病院に運んだ。
金属柵の応急タンカはけっこうな重量で、道路事情も最悪。
荷物運びにはかなり慣れているはずの劇団員にとっても、それはかなりの重労働だった。
ようやく運び込んだ病院は、戦場だった。
電気も無く、水も無い。
それなのに怪我人は数限りなく運ばれてくる。
その場で亡くなった人も多数出ているらしい。
殺気立った医師や看護婦が絶望的な戦いを強いられていた。
被災地では救出する方もされる方も、ともに被災者であることに変わりはない。
程度の差により、その場その場で立場は変化していくことになる。
うす暗い病院の半地下スペースに、何列にも蒲団が敷かれて、多数の人が治療を待ちわびていた。
私たちもなんとかKを寝かせるスペースを確保することができた。
ひとまずKを病院まで運べたことで、「さてこれからどうするか?」という話になった。
私たちの交友関係は貧乏暮しをしている人間が多く、したがって老朽アパートに居住している割合も高かった。
それぞれに友人知己の安否確認をする必要があった。
簡単な話し合いの結果、Kに付き添いのメンバーを残して、一旦解散することになった。
ちなみにここまでの時点で、私は警察や消防等の公的な救援活動を、一度も目にしていない。
まったく活動していないということはもちろん無かったのだろうけれども、配備に対して被害件数の分母があまりに大きすぎたのだろう。
巨大災害が起こった場合、公的機関は基本的に「助けに来ないもの」と認識しておいた方が良い。
救援は待っていても決して来ない。
その場その場の判断で、動けるものが自分で動かなければならない。
(続く)