数年前のジェットコースター事故が原因で閉鎖されてしまったが、子供の頃にエキスポランドに遊びに行けば、否が応でも「太陽の塔」の威容が目に飛び込んできたし、TVコマーシャルでは岡本太郎本人が「芸術は、爆発だ!」とか「グラスの底に顔があってもいいじゃないか!」とか叫んで、鮮烈な印象を放っていた。
また、岡本太郎デザインの鯉のぼりというのもあって、これまたTVコマーシャルで鮮やかな原色のデザインが強烈だったし、今はなき近鉄バッファローズのマークも岡本太郎デザインでカッコよかった。
私の世代の多くは、自然に「芸術家=岡本太郎」とイメージするようになり、芸術と言うのは「ちょっと変わった面白いおじさん」が産み出すものなのだと、感覚的に捉えていたのではないだろうか。
中学生になり、多少の絵画技術をかじるようになると、タレントじみた岡本太郎の活動が軽く見えたり、太陽の塔のようなシンプルなデザインがつまらなく思えたりしてきた。思春期に入ったばかり、技術を学び始めたばかりの初心者が陥りがちな馬鹿さ加減なのだが、当の本人は自信満々だから自分の愚かさには気付けるはずもない(苦笑)
馬鹿真っ盛りのその頃、近場の美術館で展覧会があった。正確なタイトルは覚えていないが、日本の近現代の絵画を広く集めた展示だったと思う。何点か岡本太郎の絵画作品があり、今でもはっきりと記憶に残っている。
「森の掟」
馬鹿全開の中学生の私にすら、その作品の特異性は一瞬で理解できた。作品の持つ空気が、その場の並み居る画家の作品とまったく違っており、とくに「森の掟」にはただただ圧倒された。その展覧会には他にも優れた作品がたくさんあったはずなのだが、現在の記憶の中には岡本太郎の作品しか残っていない。私の中で岡本太郎と言う名前が「TVにでている爆発おじさん」から「凄まじい筆力を持った画家」に変わった瞬間だった。しかし当時の私には、岡本作品の圧倒的な力にまともにぶつかるだけの余力がなく、以後は「敬して遠ざける」という付き合い方になってしまった。
それから時は流れて1996年。
阪神大震災やオウム真理教事件の動乱の翌年、岡本太郎の訃報が流れた。訃報とともに岡本太郎の再評価が始まり、作品集が刊行され、多くの著書が復刊された。
私は2000年前後からそうした書籍を手に取りはじめ、中学生の頃の衝撃が生々しく甦ってきて、一気にハマった。手当たり次第に本をかき集め、貪るように読み続けた。TVの印象とは違った、研ぎ澄まされた知性に驚き、万博公園であらためて見上げた太陽の塔の空間構成の妙に嘆息した。
作品も著作もまったく古びておらず、むしろますます新しくなっているような気がした。岡本太郎の真骨頂はその視線の「若さ」にあると感じた。醒めた眼差しで宇宙を眺め、淀みを見透かし、決して惰性に流されない明朗さ……
最近また、岡本太郎の本を読み返している。
●「今日の芸術」岡本太郎(光文社文庫)
1954年に初版が刊行され、芸術を志す者に広く読み継がれてきた一冊。表題「今日の芸術」は、1950年代における「今日」を意味しておらず、芸術がその時代それぞれの「今日的課題」であるための条件を、きわめて平易な文章で語りつくしている。出版社の意向で「中学生でも理解できるように」徹底的に言葉を噛み砕いているため、読んでいてテンションの高い講演会を聴いている様な、流暢な香具師の口上に聞き惚れているようなライブ感がある。
「今日の芸術は、
うまくあってはならない、
きれいであってはならない、
ここちよくあってはならない」
こうした刺激的なコピーで読む者は首根っこを捕まえられ、理路整然と説得され、勢いに巻き込まれて一気に通読させられ、いつの間にか意識は転換させられてしまう。
個人的には「芸術」と「芸事」の相違の解説の部分が、この本の白眉だと感じた。たゆまぬ修練によって身につけた技能が、実は芸術の本質からはずれた価値であるかもしれない。そのことは恐ろしくもあり、勇気づけられもする指摘だ。
●「青春ピカソ」岡本太郎(新潮文庫)
岡本太郎が「今日心から尊敬する唯一の芸術家」と評し、だからこそ超えるべき対象として想定したピカソについての一冊。ピカソの作品や経歴についての詳細な解説であると同時に、真正面から取り組むことで積極的に創り上げた岡本太郎独自の芸術論の書でもある。
最後の章でピカソと実際に会うくだりは、湿度が低くさらっと明朗な交流の様子がうかがえる。ピカソのぶっきらぼうな言葉の断片と、太郎の受け答えは、特筆するようなことは何もないのだが、何度も読み返したくなる。
●「岡本太郎に乾杯」岡本敏子(新潮文庫)
太郎の活動を支え続けた岡本敏子が、太郎の死後、秘書としての視線から遺した記録。昨今の太郎再評価の機運は、敏子の尽力の賜物といって良いが、その敏子も今はもういない。
表紙に使われている写真が良い。白い背景の中、ふと振り返って、少し微笑んでからどこかへ駆け出していく姿は、戦後の日本を駆け抜けた岡本太郎そのものに見える。
私が1996年の神戸で、ふと手に取った雑誌の表紙になっていたのも、この写真だったはずだ。
(2009年3月の記事を再掲)