4月17日、出ア統さんがお亡くなりになったという。
凄腕のアニメ監督であることは言うまでもないが、私にとっては他のどの作品よりも「あしたのジョー2」の、それも劇場版ではなくTV版の演出だった。
ちばてつやによる漫画版「あしたのジョー」は、永井豪の漫画「デビルマン」とともに、私にとってもっとも大切なバイブル的作品なのだが、何一つ足したり引いたりできないほど完成され、過剰な思い入れを持った膨大なファンを抱える漫画版を、まったく質的に落とすことなくアニメ化した手腕は凄まじいの一言だった。
とくにTVアニメ版「あしたのジョー2」は、かなり大胆なアレンジが加えられているにも関わらず、漫画版の力石徹死後の、寡黙で研ぎ澄まされたジョーを絶妙に表現していた。
漫画版のジョーは有名な「真っ白に燃え尽きた」ラストシーンに向けて、絵的にもどんどん研ぎ澄まされて行き、ホセ・メンドーサ戦前ぐらいになるとどんな小さいコマに登場するジョーも、黙って立っているだけでたっぷり感情がこもって見えるという、奇跡のような筆致に到達しているのだが、アニメ版「あしたのジョー2」のジョーも質的にはかなり近い線を行っている。
私がTVアニメ版を観たのはまだほんの子どもの頃のことだったが、画面からにじみ出る「大人」の雰囲気に圧倒され、一目で夢中になった。
シリーズ後半の主題歌MID NIGHT BLUESも、アニメの主題歌としては異色の本格的なブルースで作品に物凄く合っており、 今の私のブルース好きの原点になった。
アニメ版でかなりアレンジの加えられたキャラクターに「ゴロマキ権藤」がいる。
漫画版でもストーリーの節目にちらっと登場しては、独特の存在感を示していたが、アニメ版では登場回数が大幅に増えている。
力石死後のジョーは孤独癖が強くなり、ごく身近な丹下段平やマンモス西にも一定の距離をおくようになる。そんなジョーが、ふと本音を漏らしてしまう友人の一人に、アニメ版のゴロマキ権藤は読み替えられており、そのアレンジがまったく不自然ではない。
激しい試合の合間に、ぽかんとあいたジョーの心の隙間。
そんな空隙に、さりげなくゴロマキ権藤は現れて、ポツリポツリとごく短い会話をジョーと交わす。
少ない言葉のやり取りに「しょせん人間はたった一人」という諦念を前提にした、それでもあたたかい感情の交流がにじむ。
ほんの少しだけ、ジョーの心に灯がともるのを見て取ると、このヤクザは決してそれ以上には深入りしない。
煙草をふかしながら、たった一言を残して、あっけなく立ち去る。
「ごめんなすって」
2011年04月25日
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