過ぎゆくお盆に、蓮如の言葉。
蓮如「御文章」より、白骨章を詠んでみる。
【白骨の唄】(4分13秒/mp3ファイル/7MB)ヘッドフォン推奨!
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蓮如の御文章または御文は、実際に本願寺派で読まれる場合には、特殊な発音が含まれている。
「白骨章」であれば「ツ」の発音がそうなのだが、今回は一般に聴き取りやすいように普通に発音している。
他にも伴奏の雰囲気にあわせて多少変えた発声もあるので、正確な読み方が知りたい方は、youtube等で「白骨の章」を検索してみると見つかると思う。
伴奏に琵琶の音を素材として使ってある。
戦国期の本願寺には、多数の琵琶法師が出入りしていたことが分かっている。
琵琶法師は平家物語を語る芸能者であるだけでなく、民間宗教者として様々な経や祭文を唱えていた。
中には蓮如の言葉を語っていた者もいたかもしれないと想像し、雰囲気で使ってみた。
思いつき優先、とにかく勢いで作ってみた感じ(このブログの「音遊び」はどれもそうだが)なので、今後時間をかけて詰めて行きたいと思っている。
【白骨章】
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、 まぼろしのごとくなる一期なり。
されば、いまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過すぎやすし。 いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。 われや先、人や先、今日ともしらず明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。
されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。 すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。 さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて、夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。 あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。
【大意】
確かなものが何もない人の世の有様をつらつら観ずるに、おおよそ儚い幻のようなものといえば、この世の人間の一生涯だろう。
万年の命を永らえたという話など聞いたことはなく、一生はまたたく間に過ぎゆく。百年の命ですら、いったい誰が保つことができるだろうか。自分が先か、他人が先か、今日とも知らず明日とも知らず、草の葉の露が根元に落ちてしまうよりも、それはありふれたことだ。
朝、生命に満ちていた者も、夕には白骨となる。無常の風が吹いたならば、二つの眼はたちまちに閉じ、一つの息はながく絶えて、花のような姿がむなしく失われるときには、親類縁者が集まって嘆き悲しんでも、もはやどうしようもない。そのままにはできないので野辺の送りをし、夜半の煙となってしまえば、あとにはただ白骨のみが残る。そうなってしまえばもはやいうべき言葉もない。
人の世のはかないことは、老いも若きもかわりがない。誰もみな、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くおたのみし、念仏申すのがよいのではないか。あなかしこ、あなかしこ。