狩りのために沖ノ島を訪れた紀州の「南竜公」が、池のほとりで宴会をしていたところ、物音に目を覚ました大蛇が襲い掛かってきた。大蛇は南竜公の投げた太刀によって再び封印されたという。
古くはスサノオのヤマタノオロチ退治から、大蛇退治の伝説には「剣」がよく出てくる。

江戸時代以降は、さすがに新しい伝説は生まれなくなった。
以下に史実としての友ヶ島を紹介する。
江戸時代には沖ノ島に牧場が作られ、軍馬が飼育されていたと言う。また、虎島の石材が和歌山城の石垣に使われ、現在にもその痕跡を残している。
友ヶ島は太平洋から大阪湾へ、紀伊半島から淡路島への交通・軍事上の要地に当たる。そのため江戸時代には関所が設けられ、明治以降は灯台や数多くの砲台が築かれて要塞島と化し、厳重な警備に包まれて一般人は全く近付けなくなった。
第二次大戦中には常時六百人の兵隊が駐留し、京阪神を空襲する米軍機とも交戦したと言う。終戦後、大砲は撤去。米軍の演習地として使用された時期もあったらしい。現在、旧日本軍の施設は完全なる廃墟となり、自然遊歩道に彩を添えている。
戦後の経済復興につれて、友ヶ島は観光名所として開発された。島を丸ごと自然動物園にする構想の下、ニホンザル・ハナジカ・タイワンリス・ホロホロチョウ・クジャクなどが移入された。このことが島本来の生態系を崩してしまったことは間違いないだろう。
開発計画は断続的に続き、淡路島と和歌山市を結ぶ「紀淡海峡大橋」の構想も、浮かんでは消えを繰り返して今に至る。こういう時代遅れの発想は、さっさと完全消滅して欲しいところだ。
現在の友ヶ島は「無人島」である。磯釣りや、夏季の海水浴・キャンプの穴場として一部で名高く、そうした客を相手に細々と航路や宿泊施設が営まれるのみである。