岡本太郎と敏子の関係を、上手く表現する言葉がなかなか見つからない。
仕事の上から見れば「秘書」とするのが適当かもしれないし、作品制作や、もっと大きく「生きざま」において二人は深く関わりすぎていて、オフィシャルな表現があまり似合わない。
戸籍上、敏子は太郎の「養女」と言うことんなっているが、それは「絵を売らない画家」であった岡本太郎の作品群を、散逸させずに管理する上での便宜上の形だと思われる。
「戦友」と言うのとも少し違う。
やはり「パートナー」とか、やや大げさながら「半身」と呼ぶのが良いかもしれない。
1947〜48年頃、太郎と敏子は出会ったらしいのだが、それ以降二人はほとんど一心同体となって活動を続けた。
至近距離で見てきた敏子によると、太郎は24時間あの「岡本太郎」だった訳ではなく、当然のように「素」の部分もあったという。
対外的には、世界中を相手取ったケタ外れの努力と意地っ張りで「岡本太郎」であり続けたのだが、それを支え続けたのが敏子だった。
そして単に「支える」という範囲を超えていたと思われるのが、太郎の活動のうちの相当な割合を占める著述だ。
岡本太郎名義の著作の多くは、折に触れて太郎の語った言葉を敏子が書きとめ、原稿にまとめたものであるという。
少しでも文章を書いた経験があれば分かることだが、話し言葉を逐一文字に起こしただけでは、およそ論理の通る文章にはなってくれない。
聴き手兼書き手にそれ相応の素養と知性が無ければ、そもそも日本語の体をなしてくれないので、喋った内容がその意図を活かした本として完成することはあり得ない。
太郎の著作は、一面では「敏子の捉えた太郎の思想」であるだろう。
著作については敏子の功績が大きかったと認識していたのだが、最近読んだ本に興味深い内容を発見した。
●「奇縁まんだら 続の二」瀬戸内寂聴(日本経済新聞出版社)
太郎と敏子と私的な交際があったという著者が、ある日絵画作品の制作現場に居合わせたときの情景が、書きとめられている。
それによると、アトリエで大きなキャンバスを前にした太郎が、少し離れたところにいる敏子の指定する色をそのまま画面に入れていく様を目撃したという。
そして「絵もまた合作か。私は妙に納得した。」と、そのシーンは結ばれている。
確かに寂聴さんが目撃したような情景は、事実として存在したのだろう。
それは分かるのだが、絵描きのハシクレとしては、文章と同様「絵もまた合作か」と言う風に簡単にまとめられると、少し違和感がある。
絵描きが作品を描く場合、常に「描く距離」と「観る距離」を意識する。
絵筆をとって「描く」ためには、画面にかなり接近する必要があるのだが、出来上がった絵を他者が観る場合は、もっと離れた距離になる。
距離が違うと、とくに色の印象が全く変わってくるため、度々作品から「離れて」確認しながら制作することになるのだ。
小さい作品なら「離す」ことにさほどストレスは無いのだが、大きな作品になると何歩も動いて確認しなければならず、その度に絵筆の動きが中断されることになる。
とくに太郎の絵画作品のような、激しく動的な作品であれば、手の動きが度々中断されてライブ感がそがれることには、かなりのストレスがあっただろうと想像される。
おそらく敏子はそうしたストレスを軽減するために、少し離れたところで作品を俯瞰しながら、太郎の「眼」の代理をしていたのではないだろうか。
絵を描くという行為は、傍目には絵筆をとる手の動きだけに注意が向きがちだが、実は「眼で観る」「感じる、考える」「手で描く」という、ほとんど同等の三つの要素から成立している。
そのうちの二つを、「岡本太郎」の無比の理解者である敏子が、高いレベルで補助していたということなのだろうと思う。
おそらく小品の場合はそのような補助は必要なかったと思われるので、文章の場合と比較すると、相対的には敏子の果たす割合は少なかったのではないだろうか。
絵描きのハシクレとしては、このあたりのニュアンスの違いにはこだわりたいところだ。
しかしながら、絵描きが他人に「眼」を代理してもらうことの重大さ自体はよく理解できる。
太郎のような強烈な個性で、そうした分業が成立したことは、ほとんど奇跡のように感じる。
晩年にはパーキンソン病を患っていた太郎を「岡本太郎」であり続けさせ、没後はほとんど「岡本太郎」が乗り移ったようなパワーで再評価の機運を作り、幻の大作「明日の神話」をメキシコで発見して日本に持ち帰る道筋を作り、それで役目を終えたようにさらりと去って行った敏子。
今現在、私達の思うあの「岡本太郎」像が、二人の合作であることには異論がないのである。

2011年12月27日
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