1996年、太郎が亡くなって以降の敏子は、それまでの「太郎の支え」という立場を大きく超えて、精力的に活動を続けた。
90年代には半ば忘れ去られた人であった太郎の再評価は、敏子によってもたらされたと考えてよい。
私はたぶん、その頃の敏子とすれ違ったことがある。
1996年から2005年までの十年間を駆け抜けた敏子が悲願としていたのが、太郎の幻の傑作である「明日の神話」の発見だった。
1960年代の終盤、大阪万博で一世一代の闘いを続けていた太郎が、地球のほぼ裏側にあたるメキシコの地で制作していた高さ6メートル弱、幅30メートルに及ぶ巨大壁画作品だ。
にわかには信じがたいことだが、太郎は「太陽の塔」と「明日の神話」という二つの巨大な代表作を、同時進行で制作していたというのである。
ホテルの壁面に設置される予定で制作され、作品自体は完成していたのだが、結局そのホテルが開業しないまま行方不明になり、以後30年以上発見されなかったという。
何枚か描かれた雛型の作品により、それがどんな絵であったかということは知られていたのだが、敏子は太郎の最高傑作と思われる現物の発見にこだわり続けた。
そして2003年、ついにメキシコの資材置き場で、汚れ、割れ、欠けたボロボロの状態になった作品を発見。2005年までの2年近くの年月と膨大な予算を使い、ようやく日本への運びこみのめどが立った中で、敏子は急逝する。
太郎と敏子の物語は、ほとんど完結間際になって残されたスタッフに手渡され、2006年、ようやく修復の完了した「明日の神話」が一般公開された。
その顛末は以下の書籍に詳しい。
●「明日の神話 岡本太郎の魂〈メッセージ〉」(青春出版社)
作品は「太陽の塔」の在る大阪吹田市をはじめ、各地からの誘致活動があったが、結局東京・渋谷で一般公開されることになり、現在に至っている。
恥ずかしながら、私はまだ現物を見られていない。
2011年12月28日
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