その「怪物」の名は小川英二。
ヤクザである。
刑期を終えて出所してきたばかりの三十二歳。娑婆に出てきてみれば、街も、周囲の人間関係も、自分を取り巻く何もかもが変わってしまっていた。
どこにも馴染めないままに、生き方の模索が始まる。
実在の人物ではない。
1988年に長渕剛の主演したTVドラマ「とんぼ」の主人公である。
小川英二というヤクザは架空の存在ではあるけれども、そのキャラクターには長渕剛本人が濃厚に投影されている。
それまでのドラマ出演では「下町の愛すべきあんちゃん」を好演し続けてきた長渕が、一転して武闘派アウトローに挑戦し、ゴールデンタイムのドラマとしては空前絶後の過激な内容で、それまでのファンをのけぞらせた作品であり、主題歌「とんぼ」は大ヒットして今でも歌い続けられている。
放送回数8回、たった二カ月の作品であるにもかかわらず、衝撃的なラストシーンで、視聴者の記憶に刻み込まれる伝説のドラマになった。
このドラマ、武闘派ヤクザを主人公にしているものの、当初は派手な抗争をテーマにしたものではなかったようだ。
はみ出し者ではあるけれども筋目を通し、人情もある、ある意味ファンタジックな「古風な愛すべきヤクザ」が、バブル真っただ中の金まみれニッポンにたいして、一言もの申すような内容を想定していたらしい。
確かにドラマの序盤は、主人公・小川英二が久々にム所から舞い戻った街の中で、様々な変化の一つ一つにゴツゴツとぶつかってもがき続ける内容になっている。
街にあふれる調子にのった若者、中高生にぶつかっては説教し、横柄な検問に引っかかっては啖呵を切り、ナメた態度の店員には札束を叩きつける。
一方で、孤独な少年に出会えば黙って力付け、地方出身のバイト学生には気前よく小遣いを渡す。
舎弟の教育には熱心で、飯の炊き方、味噌汁の作り方、拭き掃除の仕方などを実演しながら事細かに仕込み、その舎弟の母親には深い思いやりを示したりする。
このあたりの丹念な描写は、まさに当初予定された通りのものだったのだろう。
しかし放映が回を重ねるにつれ、徐々に所属する組内の抗争が比重を占めて行き、主人公・英二はその戦いのさなかに倒れることになる。
ドラマがこのような「破滅」に向かって進行してしまった理由はいくつかあると思うが、私は長渕剛が小川英二になりきるための役作りに、最大の要因があったのではないかと感じる。
身長はそこそこあるが、当時はかなりやせ型だった長渕剛が、喧嘩上等の武闘派を演じる場合、その「強さ」にリアリティを持たせるためには一工夫が必要になる。
身長か体重で並はずれたものがあれば、何もしなくても「強い」と伝わる。
体格に恵まれない場合は、何らかの武道や格闘技の技を身につけている描写をしなければならない。
たとえフィクションの世界であっても、それなりの技量を身につけていなければ、説得力のある「画」にならないのだ。
ずっと後には見事な肉体と空手の技量を身につけることになる長渕剛なのだが、ドラマ「とんぼ」収録当時には、その両者ともにまだ獲得していなかった。
体格も技量もない人間の「強さ」にリアリティを持たせる場合、残された方法はほとんど一つにしぼられる。
狂気である。
喧嘩の始まる一瞬を敵に先んじてとらえ、一気に精神のリミッターを外して苛烈な速攻を加える。
相手に体格や技量の優位を使う余裕を与えず、先にブチ切れてメチャクチャをやる。
喧嘩の設定を、相手が想定している範囲を越えて、瞬間的に「命のとりあい」まで拡大し、恐怖感を与える。
小川英二の喧嘩はほとんどがこのパターンで、スポーツ格闘技ではない生の修羅場では、まことに有効かつ合理的な方法論だ。
誰しもあまりにイカれた人間を相手にするのは、嫌なものなのだ。
この役作りの過程で、長渕剛の中の負の感情、狂気の部分が拡大され、小川英二そのものになりきってしまったことが、その後の展開にも影響したのではないだろうか。
街中で「本職」に出会ったとき、兄貴として声をかけられるほどに、当時の長渕剛には小川英二が憑依していたという。
長渕剛本人も、後年のインタビューで「ドラマが終わっても英二が抜けなくなった」と述べている。
このドラマ、熱狂的なファンが多数いるが、内容が内容だけにほとんど再放送されず、DVD化もされていない。
基本設定が踏襲された映画作品に「オルゴール」がある。
●「オルゴール」主演・長渕剛 脚本・黒土三男 (脚本)
こちらはDVD化されているが、ドラマとは設定にずれがあり、よく似ているが違う世界の物語になっている。
TVドラマの大筋の中から、ヤクザ組織内の抗争に関する部分を抽出してあるようなシナリオで、ドラマ版の中の英二と舎弟・常の軽妙なやりとりなど、笑いを誘う要素が少なくなっており、作品の雰囲気がかなり異なる。
映画の尺の中では軽い部分をカットせざるをえなかったのかもしれないが、シリアスなトーンが勝ち過ぎて、主人公のヤクザの愛すべき部分が、ちょっと弱くなってしまっている印象がある。
作品内で軽妙と深刻の落差がある方が、感情のコントラストがはっきりするので、私はドラマ版の方が好きだ。
ややこしいのだが、この映画「オルゴール」ではなく、ドラマ「とんぼ」の続編が、後年制作されている。
●「英二ふたたび」
●「英二」
時間軸に沿って並べると、以下のようになる。
1、連続TVドラマ「とんぼ」1988年制作。
(パラレルワールドとして映画「オルゴール」)
2、スペシャルドラマ「英二ふたたび」1997年制作。
3、映画「英二」1999年制作。
結局、十年以上にわたって長渕剛は、自分の生み出した小川英二という怪物と、向き合い続けることになった。
その間の音楽活動も、小川英二的なイメージの元に制作されていて、長渕ファンの中でもとくに熱狂的な部分が支持していて、以下の三枚のアルバムは人気だ。
●「昭和」
●「JEEP]
●「JAPAN」
この頃のアルバムから、長渕剛の音楽はよりメッセージ性が強くなり、聴き手の好みがわかれる傾向がますます強くなっていく。
おそらく、意識のチューニングを「小川英二」というキャラクターに合わせた時、長渕剛の中から溢れ出てくる、たくさんの言葉があったのだと思う。
創作の現場では、自分の中のコンプレックスや狂気の部分は、非常に強力な原動力になる。
うまく指向性を調節できれば、聴く者の心に突き刺さる言葉の数々が、生み出され易くなる。
ものを作る人間は、基本的に溢れてくる創作衝動には逆らうことができない。
詩想がこんこんと湧いてきてくれる状態というものが、いかに得難く貴重なものか知りつくしているので、それが続く限りは馬車馬のように駆り立てられることになる。
精神的、肉体的にかなり無理があったとしても、ひたすら走り続けてしまうものなのだ。
89年から90年代初頭にかけてのこの時期、世間一般の長渕剛のイメージは固定されたといってよい。
90年末には紅白に出場、現場に文句を言いながら三曲フルコーラスで歌ったことで物議を醸したりもした。
この一件は、「ナガブチが紅白で電波ジャックをやって三曲も歌い、大御所の出演時間を削らせた」というようなまとめ方で語られることが多いが、実際の放送時には三曲とも歌詞の字幕がフルで入っており、長渕剛がNHKとの契約通りに歌ったことがわかる。
他の出演者との時間のバランスや、その後の尺が詰まってしまったことは、NHK側の仕切りの悪さであろうから、この件で長渕剛が叩かれるのは筋違いだと思う。
あの時の紅白で聴いた「親知らず」は、背筋にぞくぞくと何かが走り抜けるほどに、殺気あふれた良いパフォーマンスだった。
私はと言えば、前回記事のような長渕剛にハマりきっていた時期は過ぎていて、アルバムを通しで毎日聴くようなことはなくなっていたのだが、それでも気になって新譜が出ればチェックしていた。
アルバム全部が好きというわけではないが、「カラス」「myself」「親知らず」など、とくに気に入った曲を、ときに口ずさんだりするのが、この時期の長渕に対する私の付き合い方だった。
そんな流れの中で93年に発表された以下の一枚で、長渕剛の中の小川英二的キャラクターが、最大限にパワーアップされることになる。
●「Captain of the Ship」
2012年07月26日
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