2012年07月27日
狂気を封じる鎧3
●「Captain of the Ship」
このアルバム、数ある長渕剛の作品中でも最大の問題作ではないだろうか。
暑苦しい
説教臭い
押しつけがましい
長渕剛のことを苦手だという場合の、その原因になりそうな要素が濃縮エキスのように塗り込められた一枚である。
喉は絞りあげられ、声はしわがれ、日本人の流行歌手としては、ちょっとありえないレベルで歪んでいる。
ボブ・ディランや、黒人のブルースマンの歌声を聴いたことがなければ、この声だけで拒絶反応が出てもおかしくはない。
あえて日本の音風景の中で似たものを探せば、往年のテキ屋や市場の啖呵のドラ声くらいだろうか。
いずれにしろ、平成日本の日常には馴染みのない声音ではある。
その日本人離れした声にのせて吟じられる言の葉は、きわめて日本的でウエットな、義理と人情の世界だ。
それも、どうしようもない日常に埋没していく義理人情ではなくて、どうにもならない日常を何とかしようと死に物狂いでもがき苦しむ中から生まれた、ぎりぎりの感情が込められている。
新発売されたこのCDを店頭で見かけたとき、何かただならぬものを感じて即買いしたことを覚えている。
長渕剛に対してちょっと疎くなりかけていた時期だったのだが、これは久々にちゃんと聴いとかないといけないと直感したのだ。
さっそく聴いてみて、驚いた。
すんなり耳には入ってこない。
聴いている自分と、強烈な長渕剛の「音」が、サンドペーパーどうしをこすり合わせるようにザラザラと削り取り合って、一瞬たりとも気を抜けないのだ。
素直には受け入れがたいのだが、力と熱に満ちていることは認めざるを得ない言葉とメロディ。
心理的抵抗を感じながらも、一旦聴き始めてしまうと最後まで力づくで聴かされてしまう、今までに経験したことがない不思議な感覚を味わった。
とくにラスト二曲、13分を超える激しい曲調の大作「Captain of the Ship」から、一転して静かで美しいメロディの「心配しないで」の流れを聴き終わった時、不覚にも涙ぐんでしまったことを覚えている。
歌詞の世界に必ずしも共感しているわけではないのだが、ここまでのものを作り上げ、叩きつけてきた長渕剛という存在そのものに対する感動があった。
この作品を作り上げるために、長渕剛がどれだけ膨大な時間と情熱を注ぎ込み、人生のどれだけの部分を削り取ってきたのかが伝わってくる気がして、「好きか嫌いか、合うか合わないか」のメーターを完全に振り切ってしまって、その質量に圧倒されたのだ。
聴き終わって、茫然としながら考えた。
(ここから先、長渕剛はいったいどうするつもりなのか?)
アルバム「昭和」から始まった一連の作品傾向、小川英二という怪物と一体化した方向性が、完全に行き着くところまで行き着いてしまっていると感じた。
どう考えても、同じ路線で行く限り、ここから先はもう何もない。
(まさか、何かのきっかけで自決とかしてしまわないだろうな……)
ふとそんなことを考えてしまうほどに、このアルバムが発表された当時の長渕剛には、ヒリヒリと剥き出しの殺気のようなものが張り詰めて見えた。
実際、このアルバム発表後、長渕剛は体調を崩したり、あれやこれやフクザツな事情が重なったりして、逆境に陥ってしまうことになるのだが、私には長渕剛が「内なる小川英二」の決着をどうつけるかで、必死にもがいているように見えた。
問題作「Captain of the Ship」以降、二枚のアルバム「家族」「ふざけんじゃねぇ」は、比較的静かなトーンで続いた。
歌詞の内容も、以前のようなメッセージ性の強いものではなく、一人孤独に自分自身と向き合うような雰囲気のものが多く、元々そうしたアプローチの長渕剛が好きだった私にとって、嬉しい変化だった。
とくに以下の一枚は、ここ一年よく聴いている。
昔「STAY DREAM」や「LICENSE」が好きで、その後長渕剛から離れている人には、もし機会があれば一度聴いてみることをお勧めしたい。
●「ふざけんじゃねぇ」
2曲目「英二」は、明らかに小川英二をテーマにしたものだろう。
英二に感情移入していつくしみながらも、「英二、おまえに会いたい」と呼びかけることで、半ば自己同一化を解きつつあるような歌詞が、心境の変化を感じさせる。
おそらくこのアルバムが発表される前後のことだと思うが、長渕剛は次なる「変身」に向けて、一歩踏み出していたようだ。
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