ある程度年齢を重ねてくると、色んな段階で「ああ、自分の人生で、もうこれをはじめることは無いんだな」と感じることがある。
子供のころからなんとなく興味を持っていた数限りないあれこれの中から、一つずつあきらめ、いくばくかの寂しさを感じながら捨てていく場面に、何度も遭遇する。
とくにフィジカルに関する分野には、歴然とリミットが存在する。
長渕剛は90年代半ばを過ぎた頃、年齢で言えば30代の終盤、フィジカルトレーニングを開始している。
自身の健康維持のためのトレーニングなら、人は何歳からでも始めることができる。
その人の体力の状況にあわせて、無理なく鍛えなおすことは可能だ。
しかし長渕剛が開始したのはステージパフォーマンスに生かすためのトレーニングで、ぶっちゃけた表現をすれば「他人に見せてゼニのとれる肉体」を獲得するための、アスリート仕様の代物だったのだ。
年齢的にはギリギリのタイミングだっただろう。
長渕剛の本業はもちろん音楽である。
アスリートになるための年齢的リミットに立った時点で、「やる」方を選択する必要は全くない。
ファンも、近しい周囲の人々も、おそらく誰一人としてそんなことは求めていなかっただろう。
それでも長渕剛は、本気で志して肉体改造に着手した。
ここからは1ファンの妄想である。
もしかしたら長渕剛は、「内なる小川英二」の決着の付け方として、肉体改造に取り組んだのではないだろうか?
小川英二の持つ、全局面で命のやりとりを指向してしまうような狂気は、細身の肉体で受け止め、表現し続けると、自分自身の命も削ってしまう。
狂気の持つ創造のパワーはそのままに、余裕を持って受け止め、表出するためには、頑健で体積のある容器が必要だ。
英二の狂気をうまく封じ、ふりまわされることなく自在に使いこなすには、アスリートの肉体という「鎧」が必要だ。
そんなイメージが、閃いたのではないだろうか?
本来「鎧」というものは外部の攻撃から身を守るためのものなのだが、長渕剛の場合は内なる狂気から自分と周囲を守るためのものだったのではないだろうか。
マンガ「バイオレンスジャック」に登場する、スラムキングの鎧と似た機能と書けば、あるいは分かり易くなる人もいるかもしれない。
こころざすことだけなら誰にでもできるが、本当にやってしまうところが長渕剛の凄まじさである。
40歳を過ぎてから、55kgだった体重を70kgまで、筋肉だけで増量してしまったのだ。
その上、50代も後半になった現在に至るまで、その肉体を維持し続けているのだから信じがたい。
一般には、2008年の清原和博引退セレモニーで、長渕剛本人がギター一本で「とんぼ」を熱唱した姿が、肉体改造後のイメージを広めた瞬間になったのではないかと思うが、あの清原と並んで小さく見えない姿に驚いた人も多かったことだろう。
本業である音楽活動で、肉体改造の効果が目に見え、耳に聴こえる形で現れてきたのは、2001年発表のアルバムからだろうか。
●「空 SORA」
私がここ一年ほど続いている長渕マイブームで、よく聴いているのは前回記事で紹介した1997年の「ふざけんじゃねぇ」と、2003年の以下の一枚だ。
●「Keep On Fighting」
長渕剛が故郷の鹿児島、桜島で、荒涼とした原野を二年かけて整地して会場を設置、7万5千人を集めてオールナイトライブを敢行したのが2004年。
その一年前に発表されたこのアルバムは、その伝説的ライブに向けて、一気にアクセルを踏み込んだ勢いが詰まっている。
ヒップホップもレゲエもウクレレも、民謡も童謡もフォークもロックも飲み込んで、全部長渕剛としてあくまでポジティブに吐き出している。
強烈な個性はそのままに、それでもなぜか安心して何度も聴ける不思議な新生ナガブチがここにいる。
肉体改造後の長渕剛が、小川英二のイメージが強かった時代と一番変わった点は、笑顔を見せるシーンが多くなったことだろう。
小川英二の、人も世間も触れるものすべて命がけでぶつかる覚悟は持続しながら、昔の「下町の愛すべきあんちゃん」の個性が一部よみがえって来ているようだ。
外見的にもかなり若返って、役作り的にも、もう、うらぶれ、痩せこけ、殺気だった「英二さん」を演じることは不可能になっている。
伝説の桜島ライブでは、一晩歌い明かしたラストの一曲に、昇る朝日とともにあの「Captain of the Ship」を30分近く絶唱しながら、無事生還した。
それは、鍛え上げられた肉体という鎧をまとった長渕剛が、かつて飲み込まれかけた小川英二を、逆に飲み込み返した瞬間だったのではないだろうか。
2012年07月29日
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