おそらく長渕剛自身の中で、この中心軸がぶれたことは一度も無いだろう。
過酷なトレーニングも、それが本業の音楽活動に効果をもたらさないものであれば、続ける意味がない。
自分自身を食い尽くしかねなかった怪物である小川英二的な方向性にしても、そこから多くの言葉とメロディが湧き上がってくる豊かな源泉だったからこそ、命がけで演じ続けたのだと思う。
肉体を鍛え上げることで、長渕剛は自分の中に新しい鉱脈を掘り当てたようだ。
「体を動かすとメロディも湯水のごとく出てくる」
肉体改造がかなり効果をあげていたであろう2000年時点で、長渕剛は上記のような言葉を、当時のライブのパンフレットに残したという。
その新しい鉱脈はとてつもなく豊かなものだったようで、2000年以降の十年以上にわたって、アルバム五枚と伝説の桜島ライブ等、息が長く、力にあふれる作品群を生みだしている。
●「空 sora」
●「Keep On Fighting」
●「Come on Stand up!」
●「FRIENDS」
●「TRY AGAIN」
五十代半ばを過ぎた現在でも、まだ今の方向性は十分に余力を残して見える。
90年代の、あのヒリヒリとした感覚とはまた違った、少し余裕のある音楽になったので、おそらくこれまで何度か繰り返してきた「変身」の時と同様、ファン層の何割かは入れ替わったことだろう。
ファンとは我儘で残酷なものだ。
自分の望む方向とは変わってしまった時、「こんな姿を見るなら、いっそのこともう歌うのをやめてほしい」などと、勝手なことを思いがちだ。
私も80年代半ばあたりの作品の熱狂的なファンだったので、その心情はよくわかる。
しかし、そもそも長渕剛は「ファンの求める姿」に殉じて、ある決まったスタイルと心中するタイプの表現者ではない。
常に変わり続ける、今の姿がいつまで続くかわからない不安定さと緊張感が、長渕剛の魅力と密接に絡まっている。
「熱狂的なファン」ではなくなってからも少し離れた位置から長渕剛を見続け、ある程度年齢を重ねてきた今の私には、そのことがよく理解することができる。
40歳前後の時点で、長渕剛は長く歌い続けること、そのために一番必要なスタイルを選んだのだと思う。
その選択にあたっては、かつて西村公朝さんと交わしたという「約束」が頭にあったのかもしれない。
2003年にお亡くなりになった大仏師・西村公朝さんについては、当ブログでもいくつか記事に書いたことがある。
西村公朝の著作紹介
西村公朝展
南無地球菩薩
長渕剛は90年代はじめ頃からの約十年間、西村公朝さんと濃密な交流があり、「師」と仰いでいたという。
愛宕念仏寺に通い、ともに絵を描き、粘土をこねる交流は書画の形で結実している。
●「前略、人間様。―長渕剛詩画集」(新潮文庫)
●「長渕剛詩画集 情熱」(角川書店)
西村公朝さんは、長渕剛との会話の中で、次のような言葉を送ったそうだ。
「ええか! こうやってわしも老骨に鞭打って仏像さん彫ってるやろ。だから、あんたも88まで歌うんや。約束やで!」(「月刊カドカワ 長渕剛」より)
どういう場面での会話であったか知る由もないが、もしかしたら西村公朝さんは、一時期の長渕剛にある種の「危うさ」を感じており、冗談めかしたやりとりの中で、さりげなく救いの方向を示していたのかもしれない。
40代から50代にかけて、筋肉の鎧で完全武装するスタイルを選んだ長渕剛だが、おそらくそのスタイルは限界が来るまで守り続けることだろう。
それでも年齢を重ねていけばいつの日か、まとった鎧を手放す時はやってくる。
次はいったいどんな「変身」になるのだろう?
そんなことを空想していた矢先の2012年、ずっと未来の時制に起こるであろうその「変身」を予感させる流れが見えてきた。
以下の三枚は、いずれも「3.11」をきっかけに発表された作品である。
●「TRY AGAIN for JAPAN/お家へかえろう 2011」(シングル 2011年9月)
●「ひとつ/STAY DREAM 2012」(シングル 2012年2月)
●「Stay Alive」(アルバム 2012年5月)
東日本大震災の衝撃が冷めやらぬ2011年末、紅白歌合戦に登場した長渕剛は、この約十年のスタイルを考えると、ある意味「衝撃的」なものだった。
髪は逆立てておらず、黒。
鍛え上げた肉体は、衣装の中に隠されている。
歌う瞬間、サングラスは外される。
何よりも、音が違っていた。
ほとんどデビュー当時の歌唱方に回帰したような、澄んだハイトーン。
静かなピアノ曲に、そっと添えられたギターとハーモニカ。
今年2012年に入ってから、アルバム「Stay Alive」が発表された。
「ナガブチは嫌いだけど、あの曲は良かったね」という評判をよく目にした紅白の「ひとつ」も、もちろん収録されており、全体にあの曲調が主となっているアルバムだ。
初期のフォーク時代のファンが、その後の「変身につぐ変身」をすっ飛ばしてタイムスリップしてきたとしても、何の違和感もなく聴いてしまうであろうアルバム。
喉を絞らず、シャウトをせず、ファルセットを使った高音が、かえって新鮮だ。
最近の長渕剛の色合いは、ジャケットに映る割れた腹筋以外にも、もちろん音として混ざってはいるのだが、いつものあのアクの強さ、鎧をまとった完全武装の構えは抑え気味の一枚。
その分、深く静かに「震災後の日本」に対する感情が込められている。
3.11以降、震災や津波被害については多くの言葉を語り、行動力を示してきたこの稀有な歌い手が、原発問題にも正面から言及している。
おそらく、被災の現場を巡り、どうしようもない圧倒的な現実の重み中で被災者や救援の人々とともに歌ってきた体験が、自然と長渕剛に「武装解除」を促したのだと思う。
3.11以降、そこに生きる人々に何か言えるとしたら、それは「鎧をまとった音」ではないと感じたのだろう。
もうずっと長く、一歩引いた形で長渕剛を追ってきた私が、思わず苦笑して頭をかいてしまうような歌詞もあった。
何千何百通りの生き方がある
人それぞれに大切なものがある
お前と俺は確かに違うけれど
たったひとつだけ同じものがある
(「Run for Tomorrow」より)
「昔、長渕をよく聴いていたけど最近聴いてないな」
そんな人に一度手に取って見てほしい、最新の長渕剛の姿だ。
(「狂気を封じる鎧」了)