原発事故のことを考えるとき、いつも同時に考えてしまうのは、広島のことや水俣のこと。
70年代から80年代にかけて子供時代を過ごした私は、社会科教育や様々なメディアを通して、この二つの地名にシンボライズされる災厄について、自然と関心を持ち、学んできた。
水俣病の経緯を、おおよそ20年ごとに、ごく簡単に(本来はあまり簡単にまとめてしまってはいけないのだが)概観すると以下のようになると思う。
1950年代、地元企業による汚染で「水俣病」が発生。
1970年代近くになって、ようやくその企業が汚染源であると断定。
1990年代、水俣湾は美しさを回復しつつも、公害病認定をめぐる訴訟はいまだ継続。
2012年7月31日、水俣病被害者救済特別措置法に基づく救済策の申請が、国により一方的に締め切られる。
凄惨な公害の、被害者の多くが、数十年の単位で救済されないまま切り捨てられ、分断され、差別され、いまだにそれが継続している現実がある。
ついでながら、「とある政治家」の言動も並行した20年刻みでまとめてみる。
1977年の環境庁長官当時、陳情に来た水俣病患者の団体を門前払いにしてテニス。直訴文を「IQの低い人が書いたような字だ」と発言。さらに「補償金目当てのニセ患者もいる」と発言し、問題化。後に患者に対して土下座。
1990年代末、知事就任。重度障害者施設を視察後、「ああいう人ってのは人格あるのかね」と発言。
2011年3月14日、東日本大震災について、「日本人のアイデンティティーは我欲、物欲、金銭欲。この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と発言。
このような人物が、政治家として影響力を行使し続けることができること自体、奇異に思える。
こうした原因企業及び国による、被害者切り捨ての在り様は、今後ますます周知され、記憶に刻み込まれなければならない。
なぜなら3.11以降の日本は、電力会社と国による、低線量被曝の人体実験の場と化してしまった感があるからである。
高度成長期に生み出された公害という地獄を経験し、日本は環境汚染に対して、それなりの規制は行うようになってきていた。
放射能被曝に関しては、年間1ミリシーベルトのラインが設定され、まだよくわかっていない健康被害に対して予防的にきびしめの法規制が敷かれてきた。
そうした過去に学ぶ姿勢が、3.11をきっかけに、国と一私企業が振りかざす偽りの「経済性」により、いとも簡単に投げ捨てられてしまい、放射能に関する様々な違法状態が、平然と放置される蛮行がまかり通っている。
これからの20年後、40年後、60年後に何が起こるのか?
それは相似形として既に示されているかもしれない。
2010年と2011年、私は縁あって水俣の海を見る機会があった。
怖いくらいに美しい海を前にして、言葉が出てこなかった。
そして二度目の水俣から帰ってきた直後、3.11を迎えてしまった。
水俣を語り継ぐ本は数あれど、まずは以下の一冊を開いてみてほしい。
●「みなまた海のこえ」石牟礼道子 丸木俊 丸木位里(小峰書店)
2012年08月07日
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