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出勤のために自室から一時間以上かけて被災地を抜け、鉄道の通じている地点まで行き帰りする毎日を過ごすうちに、色々なものを見た。
バイト帰りの夜道、高速道路や鉄道の高架橋を通りかかると、昼間の復旧工事の進捗状況が日々観察できた。
地震の揺れで橋脚のコンクリートが部分的に爆発したようになり、ねじ曲がった鉄筋部分がひしゃげた提灯のように露出する現象はあちこちで見られた。
私の通勤経路でも何箇所かあったのだが、そのうちのいくつかは、「無事」な部分はそのままに、ジャッキアップして継ぎ足すように再建していた。
当然、しかるべき強度計算がなされた上での復旧工事だったのだろうとは思う。
理性としてはそのように考えるべきだとわかってはいたのだが、あの激震を体験した素人目には、なんとも危うい印象を受けてしまったものだ。
(そんななおし方でほんまに大丈夫なんかいや……)
地震で倒壊した鉄筋コンクリート建造物のうち、多数に強度偽装らしき痕跡が認められたというニュースを聴きながら、どうしてもそんな疑問が頭をよぎって行った。
他にも、眺めているだけで滅入る風景は多々あった。
広い範囲で家屋が倒壊し、火災で焼き尽くされたエリアが何箇所かあった。
めぼしい公園には仮設住宅が立ち並び、ゴミ集積所には回収されないままの粗大ゴミや廃材が「山脈」を形成していた。
そうした荒廃の風景は震災後数年のうちに徐々に解消されて行ったのだが、その後「復旧」された街は、震災前のものとはまったく違った性格を持つようになっていた。
先にも書いたことだが、時代の流れとともに徐々に進んでいくべき街の変化が、震災を契機に十年分ほど強制的に進められてしまった感があった。
街を構成する建造物の建て直しは、ものの数年もあれば完了する。
神戸の例で言えば、ライフラインは数カ月、主な交通機関も半年すれば復旧したし、2000年に入る頃には「破壊された街」の痕跡はほとんど目に見えなくなった。
しかし、モノが復旧されたからと言って、震災のすべてが終わるわけではない。
そこに住む人間それぞれにとっての震災は、心の中で残り続けるし、それは被災地の地べたで暮らす者にしかわからない。
同じくバイト帰り、長い帰りの夜道を歩いていて、見知らぬ犬がついてきたことがあった。
小型の柴犬で、野良犬には見えなかった。
歩く私から微妙に距離を置いてついてくる。
はじめはたまたま進む方向が同じなのかと思ったが、いつまでも同じ距離感でついてくるので、ちょっと困った。
ためしに歩道を蛇行してみると、私の足取りそのまま辿ってくる。
仕方がないので、話しかけた。
「ごめんな。連れて行ったられへんねん」
飼い犬なら、人間のしゃべっている言葉の「意味」は通じなくても「意図」はけっこう通じるものだ。
「家どこや? あんまり遠くまでついてきたら、帰られへんようになるで」
しゃべりながら、何か似たようなことがあったなと気づいた。
そう言えば震災二日目、親元に避難するときに、どこかの犬がついてきたことがあった……
あの犬、飯は食えただろうか?
私は特筆するほどの犬好きでもないのだが、震災当時の心境として、行くあてのない迷い犬とどこか通じるものがあったのかもしれない。
私の言葉が通じたのかどうか、今度の迷い犬も、どこかへ歩き去って行った。
もちろん、その後の消息はわからない。
阪神淡路大震災では、一般市民によるボランティアの活動が注目され、「ボランティア元年」という言葉もできたほどだった。
私はと言えば、そうしたボランティア活動とは直接関わらないままに、どうにかこうにか日々をしのいでいた。
私自身が(直接的な被害は少なかったとはいえ)被災者であったし、被災地で寝起きし、余所で稼いできた金を被災地で使うことこそが、自分のできる最善の「復興活動」だと思っていたのだ。
ところがある時、知人を介して、風変わりなお話をもらった。
震災で広範囲が焼失した地域で、地元の人が飲み食いしながら懇談できる、集会所が建てられたという。
建てたはいいが、工事現場のような愛想のないプレハブなので、その壁面に何か絵でも描いてくれる人はいないか、探しているそうなのだ。
「あ、俺でよかったらやるやる!」
即答した。
たぶん、自分以上の「適任」は、なかなか見つからないだろうと思った。
良い絵描きさんは巷にもたくさんいるが、プレハブの壁面のようなイレギュラーなキャンバスに、画材にこだわりなく、安上がりで見栄えのするサイズの絵が描ける人間は、そんなにたくさんいないだろう。
私は大きなサイズのペンキ絵を描くことに関しては中高生の頃から経験を積んできていたし、震災当時は映画館の看板描きのバイトや、所属していた小劇団の舞台美術で、その手の作品制作には熟達しまくっていた時期だったのだ。
さて、何を描こうか?
依頼主さんからは、具体的な希望は特になく「とにかく明るく景気のいい感じで」と言うことだった。
「じゃあ、七福神を描かせていただきます!」
とくに迷うこともなく、絵のテーマについても即決した。
実はその頃、私は徐々に神仏に関する読書を始めていたところだった。
父方の祖父が浄土真宗の僧侶、母方の祖父が仏像彫刻を趣味にしている大工だった私は、それまでも神仏に関心を持たなかったわけではないのだが、まともに資料にあたって調べたりということはなかった。
思うところあってそうした読書を始めた、ちょうどそのタイミングに、もらったオファーだったのだ。
焼け野原に立つプレハブ小屋に浮かび上がった、ペンキ絵の七福神。
今の自分が描く絵としては、素晴らしくお似合いな気がした。
ああ、この辺だ。
自分はこの辺りから始めるのが良い。
そう思い立つと、久々に心が上向きになってくるのを感じたのだった。
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(私的震災記「GUREN」ひとまず完)