「弘法筆を選ばず」という、有名なことわざがある。
書の名人であった弘法大師空海のようなお方は、どのような筆を使っても素晴らしい字を書くことが出来る。よって、技術に優れた人は道具の良し悪しに関わらず、腕を示すことが出来るという意になる。
このことわざが正しいことは経験的にわかる。私はこれまで何人もの絵画・造型の達人のお仕事を現場で拝見したことがある。達人の皆さんは、手遊びにその辺の素材を使って、巧みに腕前を披露されていた。
しかし、ここで少し注意を払いたいのは、そうした達人の皆さんは「筆」つまり道具に、一方ならぬこだわりをお持ちだったということだ。
例えばある作家が、手書き原稿からワープロに乗り換えると微妙に文体が変わり、文体が変わると作品の空気も変わってくるということは、よくある。最近なら、ある漫画家が手描き原稿からCGを導入して、画風だけでなく作風自体が変わったという事例もけっこうある。
作品は道具・手法の特性にも影響を受けつつ成立する。だから「弘法筆を選ばず」は一面の真実ではあるけれども、「筆」はやっぱり重要なのだ。
ちなみに弘法大師の書と伝えられる作品には、様々な作風が存在するようだ。
●岡本光平の文字を楽しむ書(岡本光平, 夢枕獏, 戸田菜穂)
この本はNHKの「趣味悠々」シリーズのテキストだが、様々な書の技法の例として、弘法大師の作品が取り上げられている。
この番組を見て、私は「弘法筆を選ばず」という言葉の受け止め方が、それまでとガラッと変わってしまった。
なんとなく、この言葉から「空海はどんな筆を使っても一定の書を書いていた」というイメージを持っていたのだが、実際は「どんな筆であってもその持ち味を生かして自在に操り、バラエティに富んだ書を生み出した」ということなのではないか?
書は全くの素人なので詳しくはわからないけれども、そんな印象を受けた。
2006年12月23日
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