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2013年04月26日

視力検査で「技」を使ってはいけません

 数日前から、両目の上下まぶたが腫れている。
 はじめは、だいぶ落ち着いてきた花粉症が、気温が低めの日が続いたためにぶり返したのかと思っていたのだが、普段の二重まぶたが完全な一重になった時点で「ちょっとおかしい」と気づいた。
 いわゆる「お岩さん状態」ほどにはなっていないのだが、周囲の人に声をかけられる程度にははれぼったくなっている。
 市販の目薬をさすと少しマシになったが、翌朝起きるとまた腫れていたので、久々に目医者に行った。
 前回いつ行ったのか思い出せないくらい久しぶりの眼科である。
 久しぶりではあるのだが、眼科は私にとって一番受診した回数の多い医者でもある。

 幼い頃、弱視だった。
 三歳ぐらいのとき、TVを見ていた私の視線に違和感を持った親が、目医者に連れて行ったことでわかった。
 とくに右目が弱いことがわかり、それ以来十年近く眼鏡をかけていた。
 幼児の頃は週に何度も目医者に行って、検査や矯正を繰り返していた。
 その甲斐あって、小学校高学年になる頃には、左右アンバランスながらほぼ問題ない視力になり、中高生の頃にはむしろ目の良い部類に入っていた。
 高校生の時の視力検査では右1.5、左2.0になっていたし、20代の頃バイトで図面を引いていた時は、0.5mm単位で線を引き分けたりしていた。
 ここ十年ほどはPCを使い始めたことや年齢的なものもあり、細かい工作に苦労したり、昔の字の小さな文庫本をしんどく感じたりした時などに、「あ〜視力落ちてるだろうなあ」と感じることが多々あった。

 久々の眼科で視力検査を受けた。
 結果は右1.2、左1.5。
 数字上はまだまだ見えていることがわかったのだが、おそらく右はもう少し悪く、0.8〜1.0くらいが実態ではないかと思う。
 どういうことかというと、私は視力検査に関しては、ある「技」を身につけているのである。
 幼児の頃、週に何度も繰り返された視力検査。
 その過程で私は、視力検査表を実際に見えている以上に読み取ることができるようになってしまった。
 度重なる検査に飽き飽きしていた幼い私は、さっさと段取りを終わらせたいという思いや、少しでも現状を楽しもうという思い、「いい結果が出ると周りの大人たちが喜ぶ」という観察から、鮮明には見えていない検査表のマークを推測で読み取る技術を、なんの悪気もなく密かに磨き続けていたのだ。
 具体的には、鮮明に見えているマークを焦点をぼかすことによって「ぼんやりとしたシルエット」に変換し、その印象と比較検討することによって小さくて見えにくいマークを読み取り、また検査表全体のマークの配置具合などからも総合的に判断する、というものである。
 言葉で説明するとものすごく難しそうに感じるかもしれないが、幼い子供はこのような「ゲーム」には驚くべき能力を発揮することがあるものだ。
 視力検査というのはあくまで「視力の実態」を知るためのものだというような大人の常識は、幼児には通用しない。
 当時の私にとって視力検査は完全に「高得点を上げるためのゲーム」と化しており、頭を高速回転させながら、実際より少しずつカサ上げされた検査結果を生み出してしまっていたのだ。

 久々の視力検査で右目を測っているとき、私は無意識のうちに「技」を使ってしまっている自分に気づき、内心で苦笑した。
(あかんあかん! ゲームと違うんやから普通にせなあかんがな!)
 左はごく普通に見えるものは見えるといい、見えないものは見えないと答えた。
 だから今回の検査結果、右目はもう少し悪いはずである。



 ちなみにまぶたの腫れに関しては、
「すごい結膜炎ですね〜」
 ということで、目薬を出してもらっただけで済んだ。

 私の出発点は弱視の幼児だったのだが、その後回復して目の良い時代が長く続いた。
 いつの間にか「見える」状態に慣れてしまって、そのありがたみがわからなくなっている。
 せいぜい大事にしなければ。
posted by 九郎 at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする
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