前回記事で紹介した「播磨灘物語」作中ではさほど比重が置かれていなかったが、戦国末期の播州の動静を考える上で重要地点だったと思われるのが英賀本徳寺を中心とした寺内町だ。
中国地方の瀬戸内の海民は、多くが本願寺の信仰を持ち、石山合戦においても積極的に大坂本願寺を支援した。
播州の河口三角州のような地形にあたる英賀の地は、中国地方と大坂本願寺の海の中継地点として機能していたはずだ。
こうした海上交通の要所に本願寺の寺内町が存在し、それぞれ緊密なネットワークを構築していることが、一向一揆の力の源泉だった。
信長は結局本願寺を滅ぼしきれなかったが、ともかく大坂の本山を退去させることには成功した。
これにより、各地の本願寺寺内町ネットワークは中心部分を失った。
信長の高転びによる死後、秀吉は基本的にはその路線を受け継ぎ、寺内町ネットワークの解体を企図した。
英賀の地の処分でも秀吉は本徳寺自体は滅ぼさず、近隣の「亀山」を寄進して、信仰の場と海上交通の要所を分断した。
こうした経緯については、以下の本に一章を割いて紹介されている。
●「百寺巡礼 第六巻 関西」五木寛之(講談社文庫)
本徳寺はそれ以後、亀山の地で「霊亀山本徳寺」として現在まで存続することになる。
この亀山の地は古来、「三足の亀」を祀ってきたという伝承もあり、元々は陰陽道的な信仰の場だったようだ。
陰陽道は、中国由来の陰陽五行や風水をベースに、日本で神仏と複雑に習合してきた思想で、宗教者だけでなく、芸能民や各種商工民に対しても影響が強かった。時代が下るほどに煩瑣な迷信の巣窟になり果てて行った面もあるが、元来は実用的な思想だったのだ。
戦国時代に入り、蓮如の活動を通して、本願寺の布教が爆発的に勢いを増した。
蓮如はそれまでの仏教教団が主な救済の対象としてこなかった、商工民や芸能民などの「雑民」に対し、積極的に教線をのばしていき、寺内町ネットワークの力の源泉になった。
それは陰陽道の領域に分け入ることでもあったはずで、このあたりに一向衆と陰陽道の微妙な交錯の理由がありそうだ。
このテーマは、あまり簡単にまとめてしまわず、今後もじっくり考えていきたい。
亀山本徳寺については、お寺さん自身のサイトが非常に充実していて参考になる。
亀山御坊本徳寺
この御坊、実は私も子供の頃何度も行ったことがあったりする。。。
サイトを拝見すると、毎月「楽市楽座」というフリーマーケットも開催されている模様。
わが縁日屋も、可能ならばぜひ一度、お邪魔してみたいものだ(笑)
2013年08月09日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック