信長に徹底抗戦、本心は不安 本願寺・教如の手紙発見
石山合戦の終結前後、父である顕如上人に逆らって大坂本願寺籠城を続けていた教如上人が、ついに退去する直前、母である如春尼にあてて、不安な内心をうかがわせる内容をしたためていたらしい。
ニュースソースには小さいながら手紙現物の画像も添付されている。
頑張ったら読めるかな?
これでも学生時代は「古文書学」なる科目を履修していた。
確か単位は取れていたはずなのだ(笑)
書かれた時点と内容を考えると、無茶苦茶重要な史料である。
すでに顕如上人からは義絶されていたはずだが、さすがにまったく縁が切れていたというわけでもなく、母親とは連絡があったということなのだろう。
今回は個人蔵ということだが、東西両本願寺には様々な理由で表に出ていない重要史料がまだまだ眠っているのだろうなあ……
あの「歎異抄」ですら、日の目を見たのは明治以降だという話だし。
ニュースに関連して、以前撮った写真を紹介しておこう。
私は数年前から石山合戦と雑賀衆に興味を持ち、いずれその「絵解き」をやってみたいという野望を抱いている。
調べもののために雑賀衆の本拠地の和歌山市には、もう数え切れないほど足を運んだ。
そうした調査旅行の中で、和歌浦の雑賀崎という所に、今回ニュースになった教如上人ゆかりの岩窟が存在することを知った。
大坂本願寺を退去した教如が、雑賀衆の元に身を寄せた際に隠れたとされる岩窟で、一応現存しているらしい。
史実であれば、近所の鷺ノ森に移転した本願寺には義絶されていたため入れず、やむなく雑賀衆の庇護を受けながら隠棲していたということなのだろう。
私も何度か行ってみようとトライしたのだが、近年は岩窟へと続く道が台風で崩落してしまった模様。
以前は雑賀崎にある観光灯台から降れたようなのだが、ここ数年はいつ行っても入口が閉鎖されたままだ。
それならばということで、海側から登ってみようかと試したこともある。

おそらく上掲写真の丸印のあたりに「上人窟」はあるはずだ。
遠目には通路らしきものも見えるので、なんとかよじ登れないか堤防を越えてみると、こんなことが書いてあった。

……いろんな意味で怖い。
当方としては入場料を払って見学したいと思っているのだが、どこに話を持っていけば良いのかわからないのだから仕方がない。
結局、今に至るまで現地を見届けられずにいる。
教如上人については、以前にも紹介した以下の資料がよくまとまっていると思う。
●「教如上人と東本願寺創立-本願寺の東西分派」東本願寺 教学研究所編
石山合戦当時の本願寺の系譜、時代背景、寺内町の状況などについて、極めてわかり易くまとめてある。
石山合戦を構成する要素としては、信長と顕如上人の対比が最も強いのは言うまでもないことだが、顕如と教如の親子関係という要素も、それに劣らず重要になってくる。
当方へのコメントありがとうございます。
個人的には顕如上人に興味を懐いて、色々と調べたこともあったのですが、今回の一件で、改めて教如上人についても勉強してみたくなりました。やっぱり、ご紹介の本が良いようですね。参照してみます。
記事中に紹介した本はブックレットのような体裁でさほど分量はないのですが、どうも教如上人の行跡自体が、不明な部分が多いということのようですね。
内容は東本願寺さんの公式見解ということでしょうから、筋の良いものだと思います。
顕如上人、教如上人については、今後も記事にしていきたいです。