前の記事で紹介した「教如上人と東本願寺創立」掲載の「教如関連略年譜」を下敷きに、石山合戦に関連する部分を抜粋してみる。(年齢は数えで表記してあるようだ)
●「教如上人と東本願寺創立-本願寺の東西分派」東本願寺 教学研究所編
1558(永禄元年)
教如誕生。父・顕如16歳、母・如春尼15歳。
1560(永禄三年)
織田信長、桶狭間の戦いで今川義元を破る。
1564(永禄七年)教如7歳
弟・顕尊誕生。
1567(永禄十年)教如10歳
朝倉義景と和議。義景の娘と教如、婚約。
1568(永禄十一年)
信長上洛、本願寺・堺に矢銭を課す。
1570(元亀元年)教如13歳
教如、得度。
石山合戦、始まる。顕如28歳、信長37歳。
伊勢長島一向一揆、織田信興を攻め、自害に追い込む。
1572(元亀三年)教如15歳
武田信玄の斡旋により、本願寺と信長、一旦和睦。
1573(天正元年)教如16歳
武田信玄、急死。朝倉義景、浅井長政、自害。
1574(天正二年)教如17歳
長島一向一揆、壊滅。
1575(天正三年)教如18歳
信長、大阪攻め。越前一向一揆、壊滅。
本願寺と信長、講和の誓紙を交わす。
1576(天正四年)教如19歳
信長、安土城に入る。
本願寺、信長軍に包囲される。毛利水軍、兵糧を搬入。
1577(天正五年)教如20歳
信長、ほぼ全軍を率いて雑賀攻め。
弟・准如誕生。
1578(天正六年)教如21歳
上杉謙信、急死。
毛利水軍、織田水軍に敗れ、本願寺孤立。
1580(天正八年)教如23歳
顕如、信長と講和。大坂を退去し、紀州鷺森へ。
これにより、石山合戦終結。
教如、講和を不服とし、本願寺に籠城(大坂拘様)。
顕如、教如を義絶。
教如、4ヶ月後には退去。
同日、失火により本願寺焼失。
教如は当初雑賀に匿われるが、以後消息不明。
1582(天正十年)教如26歳
本能寺の変により、信長急死。
秀吉、光秀を破る。
顕如、教如と和解が成立。
1583(天正十一年)教如27歳
秀吉、大阪城の建設に着手。
顕如、教如の親子にとって石山合戦の十一年間は、生涯のうちでもっとも困難な年月だったことだろう。
年齢でいえば顕如27歳〜38歳、教如12歳〜23歳頃になり、父にとっては実力的にピークの時期、子にとっては思春期から青年期への多感な時期にあたる。
両者の時期の違いは、そのまま石山合戦終結前後の、対信長の姿勢の違いとして表れているようだ。
顕如にとって信長との関係は徹頭徹尾政治的な駆け引きであっただろうし、巨大組織と門徒の命運を一手にあずかるリーダーとしては、他の在り方は許されなかっただろう。
一方、物事を損得ではなく感情的な筋目で捉える年齢の教如にとって、信長は数万に及ぶ一向一揆衆を虐殺した魔王に他ならず、何度も講和を一方的に破棄されてきた経緯も考えれば、政治的取引の対象として見ることは困難だったことだろう。
顕如・教如父子は、かなり写実的と思われる肖像画が現存している。
顔立ちや体つきはよく似て見える。
どちらも面長でいかにも意志の強そうな表情をしており、体格的にも恵まれている印象だが、教如の方がより頑丈で大柄に描かれているようだ。
(思わず「ザクとグフの違い」などと表現したくなるが、おバカなガンダム世代の戯言として聞き流してほしい……)
顕如は父・証如の急死により12歳で本願寺を継ぎ、その生涯を教学の研鑽と、複雑怪奇な政治力学の世界で過ごし、基本的には座学の人であったことだろう。
肖像に描かれる姿も、そうしたキャラクターがよく反映されてか、怜悧な知性が伺われる顔立ちになっている。
端正な父・顕如の肖像と比較すると、よく似てはいるが、教如の肖像はもっと「野太い」印象がある。
一説には、教如は顔が一尺、身の丈六尺あったとされ、また武門においても大変熱心であったと伝えられているらしい。
こうした言い回しは話半分に聞くべきなのだろうが、思春期・成長期にまともに石山合戦にぶつかった教如が、肉体的な鍛錬や、あるいは「実戦」に鍛えられ、こうした風貌を持つにいたったのではないかと想像される。
石山合戦中の教如の具体的な行跡は残っていないようだが、断片的な傍証を拾い集めれば、若き次期リーダーとして戦陣に参加していたとしても、ありえないことではなさそうだ。
織田軍と実際に対峙し、厳しい戦いを潜ってきたと仮定すれば、父に義絶されてまで徹底抗戦の道を選んだことの理由として、辻褄が合ってくる。
少々勘ぐれば、石山合戦中の行跡が不明なことも、戦闘行為に関与しすぎたことが宗門の次期リーダーとして問題視され、伏せられたのではないかとも思えてくる。
仮定に仮定を重ねるようだが、そのような「ともに戦ってくれる若きリーダー」という武勇伝があればこそ、本願寺内の対信長徹底抗戦派の支持は集まりやすかっただろう。
石山合戦の終結、大坂退去については、本願寺内でもかなりの勢力が教如を支持し、門主・顕如に義絶されたにもかかわらず支え続けた。
この時点で、本願寺内は二派に分かれていたのだろう。
信長の死後、顕如と教如の間には和解が成立しているが、そうせざるを得ないほどに、教如派の勢力が強かったという面があるだろう。
後の東西本願寺分立で、もう一方のリーダーとして立てられることになる弟・順如は、石山合戦の終結期にはまだ幼く、教如に代わる後継者としての器量があるかどうか、まだ見極めきれなかったという要素もあるかもしれない。
(以下、失礼ながら他人様の親子関係をあれこれ妄想してみる)
顕如と教如の年齢の近さにも、注意を払う必要があるだろう。
教如は顕如が15歳の頃生まれた長男だ。
晩婚・少子高齢化が当たり前になった現代と違い、人間五十年も生きれば長命の部類に入り、死がすぐ隣に居座っているような戦国時代のことである。
十代の結婚、出産は特に珍しいことでもなかったのだろうが、石山合戦から東西本願寺分立の顛末を俯瞰するとき、顕如・教如父子の年齢の近さは、ことの成行きに影響を及ぼしたのではないかと、どうしても想像したくなってくる。
ちなみに顕如の死後、教如と継承を争った末の弟・順如は、兄より19歳年下であり、顕如と教如の年齢差より離れている。
教如からして見れば、父・顕如はさほど年齢差が無い上に、極めて優秀で、容易に越え難い壁として映ったのではないだろうか。
自分はこの父にこれからもずっと、頭を押さえつけられていなければならないのかと、才気に恵まれた少年であれば、それだけに反発は生じることだろう。
父のやらないこと、できないことで、自分にできることは何か?
それは戦場に出ることしかないのではないか?
(以下、果てしなく妄想は続く……)
石山合戦における教如上人という存在は、調べるほどに関心が深まってくる。
教如上人の視点から見た石山合戦というのは、年齢も含めてかなり魅力的だ。
他の主要人物、例えば信長は石山合戦時37歳〜48歳くらいであり、雑賀孫一(鈴木重秀)は信長と同世代か少し年上あたり、顕如は前述のとおり27歳〜38歳だ。
いずれも年齢的に脂の乗り切ったピークの時期にあたり、すでに人格は完成されていて、その間の「のびしろ」は少ないだろう。
比較して教如はまさに成長期にあたり、戦闘的な性格と肉体を持っていたという伝承もあるとなれば、物語の素材としては使いでがある。
実際、教如上人を主役クラスの「戦士」として描いた小説も存在する。
次回記事で紹介しよう。
●「信長が宿敵 本願寺顕如」鈴木輝一郎

2013年10月14日
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