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2014年01月27日

「日本人本来の食」という神話

 日本には、稲作を国の基本と考える根強い伝統がある。
 史実としても弥生時代以降の日本の食糧供給の中心軸は稲作であったし、そうした史実を反映しているとみられる日本神話もまた、稲作を至上の美徳としている。
 稲作を中心とする農業は、それ以前の狩猟採集生活からは考えられないほど食料の安定供給をもたらし、人口は飛躍的に増えた。
 稲作がこれほど重視されるのは、食料供給や備蓄において有利であっただけでなく、経済活動の基礎にもなっていたことが大きい。
 近世になって貨幣経済が普及するまで、国の富は米の出来高をベースに考えられていた。
 稲作は狩猟採集生活に比べてはるかに長時間ではるかに過酷な労働を必要としたが、それと引き換えに与えられる豊かな「文明」を、人々は喜びを持って選択した。
 かくして農業に勤しむ人こそ国の宝であり、自然の恵みの象徴である米に感謝を惜しまないという、日本人の心に深く根差した美徳が生まれた。

 農業離れが進んだ現代でも「日本人本来の食は米を主食としたものであり、度を越した食の西欧化は日本人の身体に合わない」という考え方は、通念として定着している。
 健康的とされるのは、いわゆる「病院食」に代表されるような、炭水化物を中心にしたカロリーと脂質が控えめのメニューだ。
 そうした食事は日本人が神話の時代から受け継いできた美徳ともよく合致しているので、「これが健康食です」と言われれば素直に疑いなく受容しやすい。

 ところが、一連の記事で紹介してきた以下の本は、そうした「日本人の食の常識」を、神話のレベルから否定する。


●「炭水化物が人類を滅ぼす」夏井 睦(光文社新書)

 私も含め多くの人が本能的にこの本で紹介される「糖質制限ダイエット」に感じるであろう衝撃と反発は、日本人が大切にしてきた美意識、米に対する素朴な信仰を、根こそぎ解体するものであることに起因する。

 筆者は(おそらく問題提起のためにあえて挑発的に)極論を連発する。
 炭水化物は果たして人間という生物にとって必要不可欠なものなのか?
 よく「日本人本来の食事」というが、米(とりわけ白米)を中心に腹を満たす生活は、稲作が開始された後ですら長らく一般的ではなく、せいぜい近代以降のことなのではないか?
 「本来の食」ということであれば、稲作以前の狩猟採集生活の方がはるかに期間としては長く、その時代には今ほど炭水化物は摂っていなかったのではないか?
 我々はいつの間にか、炭水化物のほんのり甘い味覚や、腹一杯食べた時の「満腹感」の魔力にとりつかれ、生物としては不自然な食生活を選んできたのではないか?
 炭水化物の大量摂取こそが、肥満や成人病などの健康被害を生んだ「主犯」なのではないか?
 大量の炭水化物を供給するためにコストを削減した大規模農業は、土の荒廃や淡水の枯渇でもはや限界になっているのではないか?
 人類は炭水化物に頼らない食を模索すべき時期に来ているのではないか?

 これらの問題提起は衝撃的ではあるけれども、おそらく基本的な発想としては間違っていない。
 自分でゆるめの糖質制限をやってみた体感からもそう思う。
 ただ、炭水化物の魔的な部分は認めつつ、糖質制限の顕著な効果も認めつつ、それでも私自身は「糖質0」までは踏み込まずにいる。
 昔ほどの盲目的な偏愛ではないけれども、今も変わらず「ご飯好き」であるし、たまには甘いものを飲み食いしたい。
 当面「糖質0」まで行かなくとも、「糖質半減」程度で順調に体重が減っていることもある。
 極端な糖質制限はせずとも、その効果は十分ではないかと思う。
 著者のアピールする「糖質0」には毀誉褒貶分かれることだろうけれども、「普段の食事の炭水化物を減らす」という方向性自体は、今後広く受け入れられていくのではないだろうか。

 筆者・夏井睦は、いわゆる「玄米食」についても否定的で、似非科学だと批判している。
 玄米食は「日本人本来の食」の王道として根強い人気を誇っているが、その根拠はと言えば論者の主観ばかりが目立つというわけだ。
 私も玄米食は科学ではなく「信念」「信仰」の範疇だとは思っているが、個人的には玄米食と糖質制限は結構相性がいいのではないかとも考えている。
 まず根本的な問題として、玄米は白米ほどのど越しが良くない。
 白米のおかずの多くは、そのままでは玄米の味には合わず、栄養バランスも崩れる。
 多くの人が玄米食をさける理由はそのあたりにある。
 玄米をおいしくいただくためには、玄米向けのおかずとともに、よく噛んでゆっくり食べなければならない。
 玄米は、白米ほどには食えないものなのだ。
 白米のように少々の塩気だけで大量にかき込むことができないこうした「欠点」は、炭水化物削減メニューとしては利点になりうるのではないかと思うのだ。
 また、米を玄米として食用にする場合、農法にも気を配らなくてはならない。
 玄米は胚芽の部分の栄養素が大切なのだが、その胚芽部分は汚染物質が集まりやすい個所でもある。
 だからできる限り農薬や、今なら放射性物質に汚染されないよう、丁寧に育てられる必要がある。
 玄米食を進めることは、環境負荷の少ない日本の伝統的な農法を保全し、里山を保全することにつながる。
 それは同時に、農薬や化学肥料を使い放題、地下水くみ上げ放題の、コストの安い大規模農法に歯止めをかける効用も期待できるはずだ。

 稲作を中心に据え、炭水化物を偏重した「穀物中心神話」は、健康面からも環境面からも、ある程度解体されなくてはならない。
 ただ、現状の人口を飢えさせないだけの食料供給には、穀物の役割はまだまだ大きいだろう。
 この本の、あまりに面白くて刺激的、挑発的な問題提起には拍手を送りつつ、ちょっと落ち着いて「食」のことを考えなおしてみたい。
posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする
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