3.11以後も、以下のような「消極的原発容認」の声は根強い。
「経済性を考えれば、当面は原発を動かさざるを得ないのではないか?」
「将来的には脱原発するにしても、当面は安全が確認されれば再稼働してもいいのではないか?」
まずは穏当な意見だとも言えるけれども、私は経済面、安全面ともに、まずはきちんとした情報提供が行われていない現状があると考えている。
原発関連カテゴリ釜の前回記事では、原発の経済性について考えてみた。
今回は記事タイトルの通り、事故を起こさない通常運転の状態の原発が、本当に安全と言えるかどうかについて、考えてみたい。
今、手元に一冊のブックレットがある。
タイトルは「いのちを奪う原発」で、真宗ブックレット(東本願寺出版部発行)の一冊である。
注目すべきは発行年で、2002年1月に第一刷発行となっており、2011年7月、第三刷と表示されている。
3.11以降の目で見てみれば、タイトルに端的に表れているような反原発テーマのブックレットは、とくに珍しいものではない。
しかし2000年代初頭と言えば、反原発運動がかなり盛り下がっていた時期だったと記憶している。
チェルノブイリ原発事故の衝撃から盛り上がった80年代後半から90年代初頭における反原発運動は、その後国と電力会社、大手広告代理店の圧倒的物量作戦により、銭の奔流に押し流されてしまう。
1995年、高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏れ事故。
1999年、東海村JCO臨界事故。
2007年、中越沖地震による柏崎刈羽原発事故。
そして2000年代に事故が頻発してまともに稼働していない六ヶ所村再処理工場など、他にもあるが、それぞれの時点で原発から撤退しておけばよかったと判断せざるを得ない事故があったにもかかわらず、結果として3.11を迎えてしまった。
日本の宗教界が原発について「公式見解」を表明するのは、3.11以降であればいくつか例があるが、2002年の時点での発表はかなり早く、その点では「お東さん」の英断と言ってよいだろう。
本書の編集後記には、本来なら1989年に真宗ブックレット第一号として発行されるはずだった「原発を問う」が、様々な内外からの圧力で日の目を見なかった経緯が率直に語られている。
東本願寺では原発以外にもハンセン病や大逆事件、国家神道への屈服、被差別部落と宗派の関わりなどの問題について、かなり厳しい自己批判を含んだ内容を発表し続けている。
本書もそうした流れの中、原発立地に門徒が多かった経緯も含めて、かなり踏み込んで論じられている。
日本のエネルギーの全般についても、藤田祐幸氏による極めて冷徹な分析がなされており、原発を止めても直ちに電力不足が起こることはなく、発電時に発生する排熱を有効利用すれば長期的にもエネルギー不足は起こらないという見立ては、十年以上経った現時点でもまったく古びていない。
それだけでもしっかりした内容なのだが、このブックレットの眼目は、原発労働や周辺住民の生活、原発立地で起こっている目を覆うような「現実」が、現地で門徒の皆さんと実際に向き合ってきた真宗僧侶の視点から取り上げられていることである。
国と電力会社の圧倒的な物量により、地元住民は分断され、それまでの地域社会が破壊される様。
立地周辺に健康被害が出ている疑いがあるにもかかわらず地元の声は決して届かず、陰湿な差別だけが広まっていく現実。
原発労働者の被曝管理の極めて杜撰な実態、そのことが原因で起こった作業員の被曝死、因果関係証明の高すぎる壁。
それでもいくつかのケースでは、被曝労働と作業員の死亡や疾病に因果関係が認められ、労災が認められた事実関係。
被曝労働と、原発近隣の健康被害については、過去記事でも参考書籍を紹介したことがある。
穏やかな昼下がり
本を買って原発を止めよう
●「原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録 」堀江邦夫(現代書館)
実際に原発労働の現場に入って書かれた、伝聞取材ではない貴重なルポの原点である。
3.11後に復刊された増補版。
福島の作業現場が決死隊の様相を帯びてきており、単純に「英雄視」できるような状態にないことはすでに周知の事実だが、原発労働と言うものは現在のような「非常時」だけでなく、「平時」においても悲惨な実態を持っていたことが、本書を読めば理解できる。
設計段階から、原発は人が十分な検査やメンテナンスを行えるような構造にはなっていないのだ。
●「原発労働記」堀江邦夫(講談社文庫)
こちらは文庫版。ほぼ同内容だが、諸事情から抜粋されているようだ。
●「福島原発の闇 原発下請け労働者の現実」堀江邦夫 水木しげる(朝日新聞出版)
「原発ジプシー」のダイジェストに、マンガ家水木しげるがイラストを添えた異色作。
被曝労働を知る最初の一冊にはお勧め。
●「敦賀湾原発銀座[悪性リンパ腫]多発地帯の恐怖」明石昇二郎(宝島SUGOI文庫)
90年代の「週刊プレイボーイ」は非常に社会派の一面を持っていた。(今でもその片鱗は残っているが、過去を知る者にとってはヌルすぎる)
グラビアと漫画、非常にくだらない(注:褒め言葉である)娯楽記事の中に、一号に数本は「社会派」記事が掲載されており、そのカオス具合いが面白く、勢いがあった。
そうした「社会派」記事の中に、私が大好きで掲載を心待ちにしていたシリーズがあった。
明石昇二郎の「責任者、出て来い!」である。
中でも「原発銀座」と呼ばれる敦賀の地で、悪性リンパ腫が多発しているのではないかと言う噂の真相をたしかめるために現地に乗り込む企画には、毎回興奮させられた。
雑誌の発売が待ち遠しくて、明け方のコンビニに走ったりしたものだ。
あの「週プレ」の取材班が、往年の「電波少年」のアポ無し収録のような体裁をとりながら、「責任者」どもを追い詰めて行く様子にはぞくぞくする様な痛快さがあり、それと同時に「事実」に対する怒りが込み上げてきたものだ。
私個人としては、これらの現実を知った上で、それでも「原発は必要悪」というような、「穏健」な意見をもつのは困難ではないかと思っている。
住民の健康被害が疑われ、風説が流れているにも関わらず、公的機関の疫学調査が全く行われない現実。
裁判の過程で被曝労働と作業員の死の因果関係がはっきり認められた現実。
過去の公害の事例を考えれば、こうした「表面化」した例を氷山の一角として、実態ははるかに凄まじいものであると考えるのは、決して荒唐無稽なことではない。
原発は、事故のない通常運転であっても、決して安全ではないのである。
累計数十万人に及ぶ被曝労働と、地元の終わりのない苦悩の上に成り立っているのだ。
通常運転ですらこの有様であるから、3.11の惨禍を経た後であれば、なおのことである。
ところが、どこかの選挙では、耳を疑うような放言がまかり通っている。
「50年間、運転中の原発で亡くなった方は1人もいない」
「放射能は少量ならむしろ健康に良い。1年100ミリシーベルトまで安全だ」
不都合な現実には目をつぶり、耳に快い言説だけにとびつく、一見勇ましい精神主義者。
このような輩が間違って指導的な立場(とりわけ軍部)にいたことが、先の大戦で国民全体に多大な被害を与え、国土を焼け野原に変えたのだろう。
泡沫候補の電波発言にいちいち目くじらを立てるのもどうかと思うが、こういう現実認識の極めて甘い人間に「危機管理」を語る資格は一切ない。
当人のことよりも、支持表明している著名人の方をしっかりと記憶し、以後の判断材料とするべきだろう。
ただ、こんな輩であっても、正直に自分の思うところを述べているという点では、候補者として最低限の筋は通しているとも言える。
前回記事であげつらった香具師と神輿コンビも、付け焼刃ではあるけれども、自分の思うところを述べていることは確かだろう。
その点では、過去に原子力業界の広告塔をやっていたくせに、「自分は以前から脱原発派」などと平気な顔で嘘をつく「最有力候補」などより、はるかにマシである。
2014年02月04日
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