2014年07月28日

ダブルミーニングの魔力2

 ありのままで……
 自分を好きになって……
 自分を信じて……

 世界的な大ヒット中のディズニー映画「アナと雪の女王」。
 その日本語版主題歌の中で、繰り返し発せられるメッセージである。
 翻訳の正確さの問題として、原題「Let it go」の日本語訳が「ありのままで」で本当に良いのかという議論は当然あるだろう。
 タイトルだけでなく、直訳するとかなり刺激的な英語詞の内容が、全体にかなりマイルドに改変されているのは確かだ。
 あくまで現代日本の国民性に合わせ、作品内のニュアンスと、バランスとして近くなるように綿密にリサーチした結果であろうから、そこの差異は本質的な問題ではないと思う。
 また、なるべく英語の口の動きと似た日本語を探さなければならないという制約もあっただろう。

 例によって偏屈者の戯言と聞き流してほしいのだが、私はこの歌詞に見られるような「ありのまま」とか「自分を好きになって」とか「自分を信じて」とかいうメッセージが、あまり好きではない。
 それこそ「ありのままに」ぶっちゃけると、世に多数存在するそうしたメッセージを発する作品や作者が大嫌いであるし、喜んでそれを受け取っている客もバカではないかと思っている。

「そうよね、ありのままでいいよね」とか、
「もっと自分を好きにならないとね」とか、
「もっと自分を信じないとね」とか、
 そんなことを安易にお気楽に思ってしまう人間に対しては、
「もっと血を吐くほど苦労した方がいい」と思うし、
「一回とことん自分を嫌いになってみろ」と思うし、
「こんな未熟で欠点だらけでつまらない自分なんて、信じられるわけなんてないだろ」と思う。

 はい、気違いですとも。
 どーもすみません。

 責任感が強かったり、感覚が鋭敏であったり、生真面目な努力家であったりして、自己否定的な気分になりがちな者に対して、ぎりぎりの救いとしてそのようなメッセージはあってよいと思う。
 しかし、日常生活の中で普段使いの言葉として持ち出すのは違う。
 世に溢れる「ありのまま」という擬似餌に食いつく者の大半は、結局「自分を甘やかしてくれそうな気持ちいい言葉」を消費しているだけであって、その餌に一旦食いついてしまうと、世間的にはとことん「使えない」人間に成り果てていく。
 最初から人間的な努力を放棄して、ぬるま湯に浸かって自己充足する人間ばかり量産する「ありのまま真理教」は、まことに罪深い。
 似たような嫌悪を感じるものに、「癒し」とか「ヒーリング」とか「スピリチュアル」とか「自分らしく」とか「オンリーワン」等の言葉がある。
 本来の意味で用いることには敬意を払いたいと思うが、非常時用に大切にとっておくべき「気付け薬」を、だらだらと普段から節度なく弄ぶような用法は、正直キモい。

 今回の映画の中の少女エルサが独白する「ありのまま」は、そのようなぬるま湯連中とははっきり違う。
 エルサの背負う重圧は、特異な能力にしても、国を治める責任にしても、生まれながらのものであって、本人が選択できる性質のものではない。
 劇中のエルサは、理不尽極まりない宿命の中で、なんとか責任を果たそうともがき苦しんできた少女であり、故意ではないにしても可愛い妹を殺しかけてしまったという悲惨なトラウマを持つ少女である。
 幼い頃から人並みの暮らしを全て捨て、ただただ自分の能力を隠し通すことだけを教えられ、途中からは両親の庇護すら失ってしまった少女である。
 それだけの犠牲を払ってもなお望む結果を得られずに、人間界を捨てなければならなくなった少女である。
 そんな少女が、生死のぎりぎりの境目で、「ありのままの自分」を「好きになる」とか「信じる」という最後の一線に、必死でとりすがろうとするのは理解できる。
 エルサの歌う劇中歌としての「Let it go」は世界的な大ヒットだけれども、エルサの孤独な心の叫びとしての「ありのまま」と、巷の皆々様が気持ちよく唱和する「ありのまま」は、用法が全然違いやしませんかと、マイナーブログを運営する偏屈者はどうしても余計な一言を挟みたくなるのだ。

 今回の映画の主題歌が世界的にヒットしている現状は、作り手側の巧妙なダブルミーニングが効を奏した結果ではないかと妄想している。
 表向きは万人受けしやすい「ありのまま真理教」的な言葉の断片。
 しかし作り手の真意は、世界のどこかにいる、生死の境目で切実に「ありのままで」という救いを必要とする者たちへのメッセージ。
 万人向けのライトな表現の裏に隠された、ほんの一滴の刺激物。
 それが感じられるからこそ、偏屈者が柄にもなくこの超メジャーな作品について長々と書き連ねているのである。

 日本語版劇中歌、松たか子の歌声にも、ちょっと特別なものを感じる。
 街中の喧騒、例えばコンビニ等でかかっていても、すぐに耳に飛び込んでくるのは、あの伸びのある特徴的な歌声だ。
 松たか子の本業は女優。
 過去にもヒット曲はあるものの、歌はあくまで「余技」であると、本人も思っていることだろう。
 今回は歌劇仕立ての作品だったので、演技の中の一要素として劇中歌も歌っている。
 女優として厳しく訓練された声なので、もちろん素人レベルとは比較にならないが、歌手的な歌の上手さとは種類が違う。
 生まれもった声質を最大限に活かしながら、雪の女王エルサそのものになりきって「演技」しているからこその印象深さなのだ。

 それはバージョン違いの主題歌を歌っているmayJ.と比較すればよくわかる。
 MayJ.はカラオケ番組でもよく知られた歌唱力クイーンで、元になった英語版主題歌を、非常に高いレベルで日本語におきかえてカバーしている。
 映画のエンディングで流れるバージョンの主題歌は、エルサの歌う劇中歌とはアレンジが違っていて、同じ歌詞の内容を一旦「雪の女王の独白」から切り離して、「普通の女の子の心情」を歌っていると受けとりやすいものになっている。
(私の妄想で解釈すれば、ダブルミーニングのうちの「表」のニュアンスを担当していると言っても良い)
 さすがMayJ.は、要求されている課題に対し、100点満点に近い解答をしているのだけれども、印象としては(本来「裏」担当であるはずの)松たか子の劇中歌に及ばない。
 それはある意味しかたのないことで、いくら超絶歌唱力であっても、そこには観るもの誰もが目を見張った、あの予告編の「雪の女王の乱舞」が存在しないのだ。
 歌唱力クイーンのMayJ.は今回、女優松たか子という「天然モンスター」と競いあってみて、様々に思うところはあっただろう。
 いくら歌番組でその超絶技巧を披露しても、結局松たか子の劇中歌バージョンに、評価を全部持っていかれてしまうのだ。
 表現の世界には、そういう不公平が普通に存在する。
 この理不尽を闘いきることで、MayJ.は「TVで見たことがあるカラオケ名人」から、一段階脱皮することが出来るかもしれない。
 MayJ.の場合は、タイプ的にその壁を乗り越える鍵は「更なる過剰な技術の研鑽」ということになるだろう。

 これだけヒットしているにも関わらず、当の松たか子がほとんどメディアに露出せず、一向に生歌を披露しないことについても、色々言われている。
 おそらくディズニーとの契約内容がものすごくシビアなのであろうことは容易に想像できる。
 詳しい事情は知らないが、私から見れば女優が公演中に役作りを最優先することには、なんの不思議も感じない。
 映画本編の公開からDVDリリースに段階は進んだけれども、「アナと雪の女王」はいまだ絶賛「公演中」の作品である。
 劇中で「一人氷雪の城に閉じ籠る」ことで、物語に強烈な求心力を持たせる役柄の女優は、公演中にひょこひょことバラエティー番組などに出演して素の顔を晒してはいけないのである。
 それは劇中の孤独なエルサのイメージを激しく損なう。
 何もしないことで逆に存在感を示し続けるというのは、演技のなかでもかなり高度な部類に属するが、今回の松たか子はいまだにその高度な演技を強い精神力で持続し続けているように見えるのだ。
 もう一人の主人公である妹アナ役の神田沙也加がTV出演しているのは、とくに問題無い。
 映画の中で、一人動かないことで求心力を作った姉エルサに対し、アナは縦横無尽に動き回ることで物語の推進力になったのだから、それを演じた女優が積極的にメディアに露出することは作品のイメージを壊さない。
 動かない松たか子と、動き回る神田沙也加の対比が、うまく回転しながらヒットをさらに煽っている。
 その絵図を描いている特定の個人が存在するのかどうか、私は知りうる立場にない。
 しかし、もしそうした個人が存在するなら、世の中には恐ろしいほど頭の回る人間がいるのだなと驚嘆せざるを得ない。

 そもそも、松たか子と神田沙也加というキャスティング自体が絶妙なのだ。
 二人とも超一流芸能人の親をもつ「二世」であり、その生い立ちが今回の「孤独な王女姉妹」という役柄への感情移入や役作りにプラスに働いたであろうことは想像に難くない。
 両者ともに、実年齢から考えるとかなり印象の若いタイプであることも、劇中の姉妹と共通している。
 劇中のエルサとアナの年齢設定は、それぞれ20才と17才くらいだろうけれども、文字通りの箱入り娘、お姫様育ちであったせいで、精神的な発達段階としては14才と10才くらいに感じる。
 そうした役柄を、たとえ声だけとは言え演じるためには、あまり成熟したタイプの女優では不可能だっただろう。

 松たか子の場合、劇中歌で披露された「伸びやかで特徴的な声質」という先天的要素を存分に活かした役作りをしており、「生まれながらの特殊能力を持つ少女」を演じるにあたって、シンクロしやすかったのではないかと想像してしまう。
 やや生硬に見える演技や歌声も、「長年幽閉状態にあったせいでコミュニケーションが苦手な少女」というエルサの役作りとしては、ぴたりとハマる。

 神田沙也加の場合、「本人はわりと普通だが、ごく近い肉親に強烈な個性をもつ女性長上者がいる」という、映画の内容に近い構図がある。
 そのことが今回の役作りに影響を及ぼしていると考えるのは、妄想が過ぎるだろうか。
 主題歌「Let it go」とともに親しまれている劇中歌「雪だるま作ろう」「生まれてはじめて」「とびら開けて」などは、いずれも神田沙也加の抜群の「演技力」が光っている。
 声や歌唱力ももちろん素晴らしいが、特筆すべきは「演技力」だろう。
 彼女の歌声のなかに、誰もが知る「あのお母さん」の声によく似た響きを聞き取ることは容易い。
 しかしこれらの作品の輝きはそうした「先天的な声質」というよりは、芸能人として有名すぎる母親を持つ神田沙也加が、血の滲むような舞台女優としての修練の果てに獲得したであろう技術、つまり「後天的な修行」の賜物ではないかと感じる。
 少女アナへの感情移入と役作りの成功が、劇中歌の印象深さの源泉になっているのだ。

 ここ二ヶ月ほど、映画「アナと雪の女王」の音楽を収録したCDを聴き狂っている。


●「アナと雪の女王」オリジナル・サウンドトラック -デラックス・エディション-


 聴き狂いながら、私の妄想はとめどなく続き、ついにはこうして長い記事を書き記すまでに至った。
 この極めて高度な「演劇的空間」は、日本においてはまだまだ長くつづくだろう。
 どこかの時点で、岩戸隠れ状態の「エルサ役の松たか子」が表に出てくることが、真の終幕になると思うのだが、それはどんな形になるのだろうか。
 期待しつつ、その時を待っている。
posted by 九郎 at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする
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