一週間ほど前からノドの風邪を引いている。
少しマシにはなってきたが、なかなか快癒しない。
風邪引き当初、朝起きるとノドがガサガサになって声がでなくなっていた。
毎年冬になると乾燥でよくノドがやられるので、はじめはそのせいかとも思ったが、まだそこまでの季節ではない。
声がでなくなると、てきめんに「戦闘力」が落ちる。
普段から「チビなのに声はデカい」という身体条件を基本に仕事や日常生活をこなしているので、声が出ないとスカウターの数値が半減した感じがする。
ドラゴンボール風に考えるならむしろ、半減した状態が「素」で、気合いをいれて声を出したときだけ瞬間的に戦闘力がアップするということなのかもしれない。
素の状態だと悪者に「戦闘力は、ふん、たったこれだけか。ゴミが!」と判定される。
普段ならそこから不意打ちで戦闘力を上げて反撃するのだが、声が出ないとそれもままならないのでさっさと治さなければ(笑)
別にサイヤ人のように日常的に戦っているわけではないが、小柄で大人しそうな第一印象と、デカい声のギャップが私の「つかみ」なのだ。
声がデカいのは小中高と一応続けていた剣道のおかげだ。
今の私は基本的に軟弱な絵描きに過ぎないが、剣道で貯めたフィジカルの「貯金」がいくらかは残っていて、声もそのうちの一つ。
中高生の頃、対外試合などで、こちらがチビで大人しそうだと相手が侮っている雰囲気を感じると、逆に「しめた!」と思ったものだ。
試合開始とともに、腹の底からの気合いをかけて体当たりをぶちかまし、相手が意表を突かれて体勢を崩したところを、軽量級のスピードでたたみかけるのが私の唯一の勝ちパターンだった。
体格や地力では真面目に活動している他校の選手にはとても敵わないので、こういう奇襲戦法をとるしかなかったのだが、けっこう勝ちを拾うことはできた。
進学校の弱小剣道部の中で、団体戦で全敗を避けるための、一応勝てる可能性のあるメンバーの一人には数えてもらっていた。
考えてみると今使っている「つかみ」の手法も、当時の奇襲戦法と似たようなものだ。
剣道という競技は、竹刀という武具を介在させることで、体格差や体力差がわりと埋めやすい。
現代剣道は完全にスポーツ化されているが、スポーツ格闘技の中では珍しく「体重無差別」が実質的に機能していて、武術的要素も残っている。
私の使っていた奇襲戦法などはごく初歩的なごまかしの技術に過ぎないけれども、剣道愛好家の中には本当に強い「小さな達人」が数多く存在する。
私が教えを受けた先生方の中にもそうした「本物」がいて、今も鮮明に記憶に残っている。
小学生の頃通っていた教室に、当時七段(後に八段に昇進なさったようだ)の先生がいた。
小柄だったがダイナミックな動きの本格派で、私のように体の小さい児童が負けん気を出しているのを見ると、実に嬉しそうにあれこれ教えてくれた。
体当たりを最初に伝授してくれたのも、確かその先生だったと思う。
体重に加速をプラスし、相手を吹っ飛ばす見事な技を実演してくれて、その「見取り稽古」があったおかげで、私もいくらか使える体当たりを身に付けることができた。
もう一人、中高生の頃部活で教わった先生は、まさに物語の中に出てくるような「達人」だった。
当時もうおじいちゃんだったのだが、小柄で細身なのに物凄く強かった。
段位は八段で、私より大きく強かった先輩方も、まるで子供扱いだった。
歳が歳なので中高生のように激しく動き回ったりはしないのだが、好きなように攻めさせては、巧みに隙を見つけてポンポンと打ち込んでくる。
こちらの竹刀はすべて受け流され、打突部位にかすりもしない。
先生はその場からほとんど動いていないのに、散々動かされ振り回されて疲労困憊してしまう。
中高生の間で、私はたった一度だけ、その先生の籠手にきれいに打ち込めたことがあった。
ほんのまぐれだったのだが、その一本がどうやら触れてはいけない「本気スイッチ」を押してしまったようで、それまでゆったりしていた先生の動きが突然三倍くらいにスピードアップし、私は一瞬でボコボコに打ち倒されてしまった。
私も含め、小柄な人間はこういう負けず嫌いで大人げない一面を持っていることが多い(笑)
しかし、たとえ一瞬でも達人の「本気」を引き出せたことは、あまり真面目とは言えなかった私の剣道歴の中で、誇らしい思い出として記憶に残っている。
こうして思い返してみると、生まれつきのフィジカルや、それを土台に身に付けた技術が、性格や対人関係の作法にも強い影響を及ぼしている気がする。
心と身体はよく分けて論じられるけれども、私の体感では「身体は性格」と表現するのが適当なのだ。

2014年11月06日
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