スポーツでどんな競技を好むかは、けっこう性格で分かれる。
球技などのチームスポーツを好むのは協調性がある人が多いし、個人が基本の競技を好む人はやっぱり一匹狼タイプが多い気がする。
格闘技の場合は、とくに観るだけでなく自分でもやってみようという時点で、闘争心が強く、個人主義の傾向があることは間違いない。
そんな中でも、柔道やレスリングなどの組み技系を選ぶか、ボクシングや空手、剣道などの打撃系を選ぶかで、ちょっと気質が分かれてくる。
組み技系を選ぶ方が、比較的温厚で人の話を聞ける場合が多く、打撃系を選ぶ人は完全に自他の間に一線を引いて、それ以上は接近もしないし、接近させもしないという傾向がある。
剣道出身者である私も、確かにそういう性分だ。
このように書くと、知らない人には打撃系格闘技を学ぶ人が、社会不適応の荒くれ者集団に思われてしまいそうだが、もちろんそんなことはない。
道場や部活は上下間系の厳しい体育会系ノリの縦社会なので、そこに属する限りは一匹狼なりに集団と折り合いをつける能力は培われる。
やんちゃ者でも道場でもまれてある程度の技量を身に付ければ、普通はそれを外で使おうという気は起こらなくなるものだ。
格闘技術を学ぶことで闘争心を飼い慣らし、社会と折り合いをつける効果は確かにある。
そう言えば先年、学校教育で「武道必修化」があった。
現代のスポーツ競技としての柔道や剣道に、どれほど日本の武道の伝統や思想が反映されているかは甚だ疑問だが、投げたり投げられたり、叩いたり叩かれたりする経験に乏しい現代っ子には、人間の身体が「痛み」をどのように感じるかを知る、よい機会にはなるだろう。
(ただ、短期間の講習を受けただけの素人のような指導員が、けっこう怪我の多い柔道のような競技を本当に教えられるのかという問題はある)
元々の性格が競技を選ばせるのか、競技の特性が性格を育てるのか、玉子が先か鶏が先かは難しいところだが、もう少し拡張してみると「主義主張」「思想」「政治的立場」なども、実は大層な理由ではなく単なる性格・性分で選んでいる場合が多々あると思う。
例えば私は心情左翼を自認しているけれども、これは完全に性分によるものだ。
そもそも組織など大嫌いなので、特定の党派には何の思い入れもない。
幼い頃から生涯「小柄」で通してきたので、とにかく「なりのデカい奴が態度までデカい」というのが大嫌いだった。
だから長じても「多数派である」とか「経済的に優位である」とか「軍事力で圧倒している」とかいう勢力には本能的な反発を覚える。
それは理非曲直を超えた、脊髄反射的な反応である。
自分で実行するのはなかなか難しいけれども「弱きをたすけ、強きをくじく」という心意気には憧れをもつし、反骨心をベースにした表現者には共感することが多い。
私に限らず、これはもう左右にも関わらず、実は性分で立ち位置を選んでいるという人が大多数ではないだろうか。
だからこそ「論理」や「根拠」というものが大切になってくる。
思想がほぼ性分とイコールであるならば、そこはもう変えようがない。
その暴走や誤りは、醒めた知性を磨くことでしかチェックできない。
対話の道は、「思想なんてしょせんは性分」と、それぞれに自覚するしかないのだ。
2014年11月08日
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